小沢信男著作 163

 高田行庸さんの「東京下町親子二代」には、写真家高田さんの自宅の半径300mに
お住まいの父子三十組を取り上げています。
 この三十組のなかに関東大震災東京大空襲をともに罹災した家はどのくらいある
だろうかと思ってチェックをしてみました。大正12年より前から本所界隈に住んで
いるということですが、これはなかなか難しいようです。なんども罹災したという
ことは、その都度よそからの転入する方があったということですからね。
 この三十家族のうち、関東大震災前からお住まいで、両方ともに罹災した家という
のは、すくなくて四家族でした。
 たとえば、次のような家です。
「 大正十二年、現在地(本所新井町)の菓子舗の五人兄弟の長男として生まれる。
昭和十年、小学校卒業と同時に家業を手伝いながら保善商業学校の夜間に学ぶ。
 昭和十六年、十九歳の時、愛知県豊川(父母の出身地)の海軍工廠で徴用工員として
働く、昭和十九年、横須賀海兵団に入隊。昭和二十年東京大空襲。母と妹の二人を失く
す。
 昭和二十一年、千代子と結婚。昭和二十二年十月、現在地に戻り、ポンせんべいを
つくったり、おかしの卸業で生計をたてる。
 昭和二十七年頃から和菓子の専門店としてなりたつようになってきた。」
 あとは、魚屋さんと石材店とお寺さんでありました。
 戦後に現在地に移転という家のプロフィールです。
「 明治三十六年、鳥取市国安に生まれる。十四歳の時、森下町の叔父のものに修行に
入る。
 二十四歳の時、たつ(茨城県境町出身)と結婚。昭和八年千歳町で独立。
 戦時中、家族は妻の実家に疎開、本人は町の警防団員として残り、空襲下無事生き
のびる。
 昭和二十三年頃、焼け残った機械を修理して仕事を始める。
 昭和二十七年、現在地に移転。」
 この方は、紙製品型抜き加工業というのをしているのだそうです。いかにも高度成長
を支えた町工場の家族という感じで高田さんの写真集に収まっていました。
 戦後の本所界隈のスーパスターといえば、この人と写真家 高田さんの本所中学校の
同学年である方です。
 小沢さんの文章には、次のようにあります。
「 たまたま長男の同級に、ひときわ背のたかい少年がいた。本所中には野球部もなかっ
たが、都内の中学野球大会には、にわか編成チームが彼が投手で四番を打って優勝して
きた。ふだんは卓球部に属し、シェイクハンドでなぎ倒した。スポーツに万能で、記憶力
抜群の頭のよさで、おのずから人望あつまるこの少年は、吾妻橋通りの中華料理五十番の
息子の王貞治。」
 本所区は昭和二十二年に姿を消しますが、戦後のスーパースターは、本所で生を受けて
育ったのでありましたか。