小沢信男著作 157

 昨日は、若くしてなくなった歌人 松倉米吉さんの年譜を転記しましたが、小沢さん
にとって松倉さんは、父親の世代であり、当方にとっては祖父の世代であります。
 この年譜を見ていますと、いろいろなことを感じることであります。
 小沢さんは「小学校をでれば働きにでるのが、この国の子供らの一般的な境遇
だった。」と記して、自分の父親もそうであったと続けています。
 当方の伯父は大正5年生まれでありますが、働き手の父を失った家庭に育ち、小学校を
でるとすぐ徒弟奉公にでています。そうして一家を支えて、若くして家長の役割をにな
うこととなりました。家の重みというのは、現在とは比較にならないことです。
母を助け、弟妹の生活の面倒までも見るのであります。当方の父なども、そうして育った
と聞いておりますし、長兄は父にかわる存在でありました。
 小沢さんの父上は、仕事一筋で家族を養い、最後は会社の経営の一翼を担ったのです
が、松倉米吉さんも、結核に倒れることなく、職工として、精励し、成績優良を続けれ
ば、町工場の社長か、はたまた歌人として、さらに大きな足跡を残したかもしれません。
そうした可能性を摘んでしまったということで、つくづくと結核は、国民病であったと
いうことがわかります。
 結核と徴兵という二つの命にかかわる試練があったから、この時代の青春は生きる真剣
さにおいて、今とは較べものにならないといわれますが、やはりこれは願い下げであり
ます。
 小沢信男さんは、生まれが何年か遅かったために、軍人になることなく、結核に罹患は
したものの新薬のおかげで完治にいたったのでありますから、危ういところで死線から
逃れることに成功したといえるかもしれません。
 戦前の青春というのも、死は近いところにあったと思われます。

 松倉米吉さんが、自らの結核を詠んだ作品です。 
 宿の者醒めはせずかと秘むれども喉にせき来る血しほのつらなり
 菓子入にと求めて置きし瀬戸の壺になかばばかりまで吾が血たまれる
 嵐の中の人のさけびに目醒めけり夜ごとに血を喀く時刻の来れる