小沢信男著作 156

 いまはなきEDI叢書の一冊として刊行された小沢信男編「松倉米吉・冨田木歩・鶴彬」
から、「松倉米吉」にかかわるところを引用しています。
これは全部で130ページくらいの冊子ですが、三人の作品、年譜、関連地図、著作目録、
参考文献目録、そして作家案内が収録されています。
 作家案内を書かれているのは、もちろん小沢信男さんですが、年譜等の作成は、平野
晶子さんとあります。この年譜等がたいへん参考となります。
 この年譜から、松倉米吉に関するところを見てみます。
「1908年(明治40) 13歳 二月、本所区南二葉町十七番地(現・墨田区亀沢)の
  金属メッキ業宮川電鍍工業本所分工場(通称マルエム工場)の職工となる。精励し、
  成績優良のためしばしば賞与を受ける。
 1911年(明治44) 16歳 一月『文章世界』を読み始める。三月、マルエム工場内
  で戸塚恒司、前橋喜久男と相識る。この頃より二葉小学校の図書館に通う。・・・
  七月、恒司、喜久男とともに回覧雑誌『青年文壇』発刊、ほぼ毎月刊行する。これ
  が、『行路誌社』の前身となる。
 1913年(大正2) 18歳 十月、喜久男とともに古泉千樫を訪ね、『アララギ』に
  入会する。
 1914年(大正3) 19歳 三月、『アララギ』三月号<アララギ歌壇>に
 『日毛米吉』の名で短歌五首掲載。・・
  九月、前橋喜久男、肺結核のため郷里富山県に帰省。以後音信がなくなる。
 1915年(大正4) 20歳 一月、不景気のためこの頃より隔日勤務となる。
  二月、『カハタレ』を『蹟』と改称、活字印刷とする。四月、相坂一郎、高田浪吉、
  『蹟』に参加。この春、毎日勤務に戻る。八月、『蹟』を『行路』に改称。
  『行路誌社』の成立となる。
 1916年(大正5) 21歳 四月、肺尖を病み喀血、マルエム工場を休み床に就く。
  考慮中であった巡査志望を断念する。七月、徴兵検査を受けるが不合格。
  以後喀血数度に及ぶ。
 1917年(大正6) 22歳 二月、『行路の研究』を『万葉研究』と改称、万葉集の歌
  を研究する。この頃、職を求めて町を歩き、貧しさゆえの諍いに家出を考えたり
  する。
  その後、錦糸町の金属挽物業木村方に住み込み、挽物職を習う。・・この頃、母の
  看病のため浪吉の妹を妻に望むが実現しなかった。
  十二月十五日、長崎へ向かう斎藤茂吉の送別歌会に参加。
 1918年(大正7) 23歳 十一月、東郷理髪店の二階にて、浪吉らと母の一周忌を
  行う。
 1919年(大正8) 24歳 二月、林家二女との結婚を前提に同家の養子分となった
  が、四月、長女林登美子と相愛するようになり、五月、林家を去り、再び東郷
  理髪店に下宿する。
  九月十一日 喀血。山本信一の診察を受け肺結核と診断され、東郷理髪店二階に
  戻り床に就く。古泉千樫の見舞、浪吉の物質的援助を受ける。
  九月二十八日、子規忌歌会に参加。
  十一月十二日、東京市施療病院に入院。高熱が続き病勢衰えず、
  十一月二十五日午後二時三十分、林登美子に見取られて死去。」
 小学校を卒業してすぐに奉公にでるというのは、昭和にはいってもあったことです。
戦後になっても、義務教育である中学校を卒業して、すぐに集団就職された方々は、
金のたまごといわれましたが、戦後の日本の復興は、こうした人たちの労働力に支えられ
たのであります。
 小沢信男さんの文章です。
「小学校をでれば働きにでるのが、この国の子供らの一般的な境遇だった。・・・
なかには短歌や俳句や川柳に興味を抱く子らがいた。職場で、地域で、出会いを機に同好
のグループが生まれる。三十一文字や十七文字の短さがありがたかった。有閑文学を悠々
と垂れながしていられる境遇ではないのだから。短詩型はもともと大衆的な文芸趣味だ
が、とりわけ大正という時代の一特徴を、この三人が示してはいないか。」