いやな感じ 3

 別の女性との生活を継続して、家庭を顧みることがなかったといえば、百鬼園先生
もそうでありましたね。黒沢映画「まあだかい」では、老年になってからの先生夫妻
とかっての学生たちとの交流が描かれていたのですが、この奥様と戸籍上も夫婦と
なることができたのは、ずっと後年になってのことでありました。年譜などで確認
すればはっきりするのですが、先生は、この女性と一緒に暮らすことを選んで、家族
を捨てるのでありました。
 家庭を捨てるというのは、いまでもあるのかもしれませんが、先日にやっと手に
することができた織田作之助作品「夫婦善哉」の主人公もそうでありました。
 作品の時代は、関東大震災があったころですから、1923年ころのことになります。
「女房もあり、ことし四つの子供もある三十一歳の男だったが、合い初めて三月で
もうそんな仲になり、評判立って、一本になった時の旦那をしくじった。」
 この三十一歳の男性が主人公の一人、女性は、売れっ子の芸者さんで、暮らし始め
たのは二十歳くらいのようです。売れっ子の芸者さんでありますので、世話をしよう
という男性からの申し出はあったようですが、それを断って、よりによってあんな男と
という話であります。それで「一本になったときの旦那をしくじった」となります。
 それにしても、この小説を読んでの驚きは、妾にということがあちこちにでてくる
ことであります。
 そういえば、明治時代の前半の日本では、一夫一婦制はまだ確立していなかったの
でありますね。たしか天皇家においても、完全にそうなったのは大正天皇からという
ようなことを聞いたことがありました。やっと一夫一婦制にむかって動きだしたとこ
ろですが、大正時代には大正天皇のような考えの方は少なかったようであります。
「 よくよく貧乏したので、小学校を終えると、あわてて女中奉公にだした。
俗に、河童横丁の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので、母親の顔に
思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾にしろとのはらが読めて、父親はうんと
いわず、日本橋三丁目の古着屋に馬鹿に悪い条件で女中奉公させた。・・・
 河童は材木屋だと陰口をきかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うから
という意味もあるらしかった。」
 その昔であっても、父親は妾にだすことを望まなかったということがわかります。
できれば、普通の所帯をもたせたいであります。
しかし、借金の方に娘達が売られたという時代でありまして、売られるよりも妾の
ほうがまだましでもあったのでしょう。