小沢信男著作 139

 日比谷公園というと東京の中心部にある大きな公園ですが、当方はほとんどいった
ことがありません。地図情報をみましたら、日比谷公園のなかには池があることが
わかるのですが、どのくらいの大きさなのでしょう。
 小沢さんによる「東京の池」の「日比谷公園の心字池と雲形池」からの引用です。
日比谷公園には二つの池がある。日比谷交差点の西角の有楽門を入ってすぐ左手の、
石垣沿いにあるのが、心字池。<日比谷見付跡>の標柱と案内板が建っていて、この
石垣は寛永四(1627)年の築造であり、足許の心字池は元は堀であった旨が記されて
いる。」
 小沢さんは、この文中に日比谷公園のグランドデザインを担当した技術者の自伝
から引用をしています。
「日比谷見付付近の堀は、石垣とその上の木を生かして、稍々心字をくずした形の
池とし、鶴の噴水のある雲形池は、ドイツのベルトラム公園書中の模範図をそのまま
に借用し、・・」
 昨日に引用した丸山薫さんの「噴水」という詩は、旧制中学生であった小沢少年に
大きな影響を与えるのですが、長じてから丸山薫さんを案内して日比谷公園を訪ねた
ときに話が、「東京の池」にはあります。
「じつはその頃(昭和二十年代後半)、丸山薫氏をこの公園に案内したことがある。
私は二十代で、丸山門下のひとりだった。氏は豊橋におられた。たまたま状況した
折に『噴水』の詩の話になり、あの鶴はもうないでしょう、といわれるので、いや
あります、と言い張って雲形池のそばまで引っ張ってきたのだ。鶴はおとなしく水を
吐いていた。氏はじろりと見て『違いますね』と言った。『こんなもんじゃない。
もっと猛々しい、天を刺すような鶴でしたよ。』
 わたしは面食らい、面目を失った気がしたが。いまごろになってやっと気づくこと
がある。この青銅の鶴は戦後何年も石の台座にいきなり立っていたのではなかったか。
そういえば鶴が目の前の高さに見えたようでもある。」
 丸山さんが、鶴の詩を書かれたのは、大正末から昭和初期にかけてのことだそう
です。詩人は、この作品を発表されてからも、この鶴の噴水をみることはあったのか
とも思いますが、昭和二十年代後半になって、小沢さんに案内されてこの鶴の噴水
をごらんになって、戦争の影響を、この鶴に認めたわけであります。