小沢信男著作 125

 河出版「東京百景」の第4章は、「点描 東京ー明治・大正・昭和・平成」と
題されています。19篇の書評などがならんでいます。
 この第4章について、あとがきで小沢さんは、次のように記しています。
「(第3章を)空間的な移動の章とすれば、次なる4の章は、時間的な移動のつもり。
おおかたは読書ノートの類なので、書物はそれぞれが一個のタイムマシーンなのかも
しれません。作中人物をふくめてさまざまな出会いを楽しんだ、そのメモ帳です。
こういう機会を折々に設けてくださった諸誌紙と、編集者諸氏との出会いがあって、
いま本書が生まれます。」
 ここに収録の、19篇の掲載誌紙があがっていないのが、残念です。(なんどもいい
ます。)
 まずは、このなかから小沢さんならではのものを、「タマシイより愛をこめてー
野呂重雄『ベトナム最後の砲弾』を読む」であります。
 野呂重雄さんは、1931年生まれとありますので、小沢さんより4歳年下となります。
早稲田露文をでてから、学校の教師をしながら作品を発表していた方です。
なかには、「黒木太郎の愛と冒険」のように映画化された作品もあるのですが、最近
はほとんど作品を発表することがなくなっているようです。
 小沢信男さんによる「新日本文学会の半世紀」と、その講演をドキュメントした
上原隆さんのレポートから、野呂さんにかかわるところを引用します。
「私は二十六歳で入会して、三十七歳にもなってやっとこさ、この作品(わが忘れなば)
にたどりついたんですがね。・・あのころは毎月小説が何篇もならび、すぐ前の前の号
には野呂重雄の『天国遊び』が載っている。これも彼のワン・オブ・ザ・ベストだ。」
 小沢さんとほぼ同時期に、作家として注目を浴びたことがわかります。野呂さんも
また創作だけでなく、文学運動に深く関わることとなります。
新日本文学会は創作以上に、財政難でいつも苦しんでいた。僕の後、事務局長を
野呂重雄がやってね、野呂重雄なんていうのは血の小便を流して苦しんだんだよ。この
借金をどうするかって。野呂重雄という男は前から知ってるけど、はじめて出会った
気がしたね。つまり、あの『天国遊び』『黒木太郎の愛と冒険』あの大胆不敵な小説を
書くヤツが、こんなこまやかな心の持ち主なんだね。そういう出会い、これは運動の
財産だね。よくぞ、ここで出会いました。」
 この講演は、小沢さんが2003年5月31日から6月1日に行われた第46回新日本文学会
総会において行った個人報告の文章化ですが、新日本文学会の解散を提起する大会と
いうたいへん重い意味を持つ会でのものです。この小沢さんの報告の最後にも野呂さん
の名前があがります。
「このさい、われらの長旅の足跡を、率直に総括をして、多少は人様にも惜しまれ
ながら、きれいに解散したい。そのほうがのこる波紋もきれいに拡がるんではないの
かな。
野呂重雄に『もろともにかがやく宇宙の塵』というエッセイ集があって、この題名は
ご存じ宮沢賢治の詩の一行でして、『まずもろともに輝く宇宙の微塵となりて無方の
空にちらばろう』
 ちょっとかっこうをつけて終わります。」
 このようにあるのを見ても。小沢さんが野呂重雄さんに寄せる信頼のあつさがうか
がえることです。