小沢信男著作 116

 野呂重雄さんは、小沢信男さんの作品は「文句なし面白いので論ずる必要はない」と
いっているのですが、それでは話になりませんです。いくつかの切り口で、小沢作品を
取り上げるのですが、「わが忘れなば」に関連してつぎのようにあります。
小沢信男の作品には繊細な処女のごとき感覚の触手がかんじられます。彼の本質は、
叙情詩人なのかもしれません。しかしこの作者がちょっとばかり危険なのは、自己を
弱者と規定し、時分を解体し、恥ずかしながらの上等兵さんみたいに生き恥をさらし
て生きているふうにみせながら、かなり心臓がつよく、したたかで、執拗だということ
です。彼は自分を「弱者」とみなし、そうおもいこむことができたとたんに、「弱者」
への道を発見したかのようです。『わが忘れなば』でその道の大家である『先生』に
ものをたずねる『私』は四流カメラマンなのですが、そして『私』は、べらべらと、
まるで太鼓持ちのように腰を低くしてしゃべっているのですが、よく読むと、作者は
この短詩形芸術の『先生』をからかっているのです。自分を四流の、教養もなにもない、
道徳的にも、肉体的にも不健全なものというふうに設定して、『先生』を一段も二段も
高いところに置くことができたために生じた広い空間で、彼は思いきりあっちへひっか
かったりこっちへひっかかったりして遊びまわり、自由であるのです。この作者の
『強者』にたいする、あるいは『権威』にたいする戦術はいつもこういうやり方で
あって、なかなか油断がなりません。」
 この文章が書かれたのは74年であります。ここにあります四流カメラマン 牧野さん
は、ほとんどトリックスターではありませんか。当方が小沢作品に惹かれるのは、
こうした「権威」にたいする戦術がつかえると思ったからでありますね。