メディア・アート創世記 9

坂根厳夫さんによる「遊びの博物誌」は、新聞連載のときからたいへん話題に
なったと思われます。連載が終わるとすぐに単行本になったのは、当然であり
ますが、それに続いてイベントも企画されました。
その頃のことを「メディア・アート創世記」から引用します。
「 75年から始まった『遊びの博物誌』に対する読者からの反響が大きいこと
から、出版局から本にしたいといわれ、さらにその本がかなりの評判を得ると、
新聞社の企画部から展覧会を開けないかと持ちかけられるまでになった。結局、
本来は企画部が行うべき展覧会の仕事まで引き受けるようになり、その後は
ジャーナリストと展覧会キュレーターの二足のわらじをはくことになってし
まった。
 もともとの連載は展覧会を意識したものではない。そこで展覧会のためには、
より多くの人々の好奇心や遊び心に訴える作品を選びなおす必要があると考え、
世界各地から集めることにした。安野光雅福田繁雄の二人にもそんな企画や
展示計画に加わっていただいた。結果的には当時としては珍しい話題展となり、
79年4月に東京・松屋で巡回展の第一回をオープンしたのに続き、北海道から
沖縄まで全国20数か所を巡回して、60万人を超える入場数があった。」
 この巡回展へは当方も足を運びました。会場は、どこも百貨店の催事場で
あったようですから、いまと違って百貨店が元気であった時代です。
「遊びの博物誌」展の図録が、先にでてきました。この図録には付録がついて
いまして、図録の紹介されているだまし絵が印刷されたシートがありました。
 当方にとって、一番印象深い「遊びの博物誌」でのだまし絵といえば、
ここに掲げるものでありますね。

 この上半分にあるのがそれですが、タイトルは「消える妖精」というものです。
ここには、次のように記されています。
「 この小人はカナダのパット・パターソンという女性デザイナーの作品です。
レプリコーンという、アイルランドの民話に出てくる妖精のイメージを小人に
したものです。
 この絵では、小人が15人います。これを太線にそって切りはなし、上の左右の
絵を並べかえてから小人を数えなおしてみてください。一人どこかへ消えてしまいます。
なぜでしょう。」
 今にいたるまで、おしくて切りはなすことができずにいるのですが、これは
不思議なことであります。