メディア・アート創世記 10

「遊びの博物誌」は、新聞の連載が単行本となり、そのあとは展覧会となって全国
の百貨店の催事としてまわったのですから、今考えるととんでもないヒット企画と
なるわけです。それだけ新聞の影響力が強く、取材にもお金をかけることができた
のかと思ます。それとくらべると、最近の新聞はと、ついつい愚痴りたくなります。
たぶん、最近は新聞の企画ものをまとめたもので単行本となるものは、昔よりも
減っているのではないかと思います。
 坂根厳夫さん「メディア・アート創世記」からの引用を続けます。
「編集部からは、会期中(展覧会の)から、再度『遊び』の連載をとの要請があっ
た。そこで80年二月には、家庭欄で『新・遊びの博物誌』の連載を始め、それが
出版された。そして、遊びの博物館Part2展を84年に始めることになったのである。
こうして二つの巡回展が終わったのは、ようやく85年の春のことだった。」
 「新・遊びの博物誌」については、新聞に連載の時に、完全にスクラップしたと
思います。スクラップブック二冊にわたって貼られています。このように注目を
していたのですが、これについてパート2展が開催されたというのですが、これが
記憶に残っておりません。どうしてでしょうか。地元で巡回展がなかったとも思い
がたいのですが。
「知友のグラフィック・デザイナー杉浦康平さんには、パート2展のために作品
『眼の中の眼』を出品していただき、『視覚のゲーム』のコーナーで展示すると同
時に、会場入口を入ってすぐの壁面に大きなパネルにして展示した。縦横120センチ
角の大画面は、遠くから見ると大きな目が一つこちらを向いているのだが、
よく見ると、じつは縦横十六個、合計二百五十六個のさまざまな濃淡の目を画素に
できあがっていた。」
 この大きなパネルを見た記憶がありません。25年ほど前のことでありますが、その
当時の日記をみましたら、某月某日、まちの百貨店へといって「新・遊びの博物誌」
展を見たと記してある可能性もありです。