綜合雑誌「展望」2

 昨日に「展望」創刊200号記念特別号の表紙を掲げましたら、思いがけず四谷書房様の
ブログで言及していただきました。たいへんありがとうございます。
( http://d.hatena.ne.jp/yotsuya-shobo/20101209 )
 四谷書房様のページには、近刊で次のものがあるとありました。( ちくま12月号の
新刊案内にはのっていませんので、店頭にならぶのは一月にはいってからでしょうか。)
「大澤 真幸、斎藤美奈子、原 武史、橋本 努 編集
『1970年転換期における「展望」を読む 思想が現実だった頃 』筑摩201012 2520円

「展望」が休刊したのは78年8月ということですから、店頭から姿を消して32年となる
のですね。早熟な中学生で親が購入していた「展望」を読んでいましたなんて人がいた
としたら、そのかたも40代中盤くらいになっている勘定です。
 昨日の200号記念号の表紙にありましたように、その時代には「吉川幸次郎」さんは、
まだ健在であったのですよ。吉川さんの文章は「乙卯訪中日録」とあります。75年、
昭和50年というのは卯年でありますか。
「一九七五、昭和五十年乙卯、三月二十四日午前九時、使節団員二十二名、また随員
五名、日航機で羽田をたった。外務省の高島アジア局長、藤田中国課長、中国大使館の
陳楚大使、李連慶参事官、および一行の家族たちに見送られた。以後二週間の旅、
すべて晴天であるのははじめてであった。」
 72年に中国と日本は国交回復するのですから、それから3年後のことです。この時
の中国というのは、毛沢東が指導する「文化大革命」の時代でした。
「午後一時、上海空港着、人民の国にはいったのを確認させるさいしょとして、飛行機
の窓ごしに、黒い人民服何人か、こちらへ歩みよられるのが見える。かりそめの寄港な
がら、上海の要人たちの出迎えを受けるのであった。」
 この時に使節には、茅誠司石川淳永井龍男中村光夫山本健吉佐伯彰一
曽野綾子さんなどがいたとあります。団長は、吉川幸次郎さんとのこと。
「午後四時、北京空港着。・・・東郊にある空港から、北京市の中心にあるホテルまで
は、小一時間、バイユで舗装された道路の両側の並木は、行きあう車はほとんどないが、
ところどころにバスストップがある。」 
 たった35年ほどですが、「展望」が存在した時代も文化大革命の中国も、はるか昔の
ことのように思えることです。