文化勲章のこと 5

 先日に文化勲章受賞の文学関係を抜き出した時に、たいへん関係深い人を落として
しまいました。それは岩波書店岩波茂雄さんであります。文学関係といっていえない
ことはないのでありますが、本をつくる人で文化勲章を受けたのは、岩波さんが最初で
最後であります。(ジャンルは異なりますが松竹創立者である大谷竹次郎の受賞は、
傾向が似ていますが。)
 岩波茂雄さんの受賞に関しては小林勇著「惜櫟荘主人ー一つの岩波茂雄伝」でも
とりあげられています。(惜櫟荘は、岩波茂雄が建てた熱海の別荘で、これは現在、
佐伯泰英さんの所有となっていて、岩波「図書」でこの建物の大規模修理の様子を連載
しています。ほとんど文化財修理の趣で、佐伯さんは時代小説で得た収入のほとんどを
この別荘の維持のために費やしているのではないかと思えるほどです。)
 岩波茂雄さんの受賞は、第二次大戦直後の1946(昭和21)年のことです。
 小林勇さんの文章には、次のようにありです。
「 昭和12年に制定された文化勲章は戦争のためにとぎれていたが昭和21年にはまた
復活された。この年は二月十一日のまだその頃人に記憶されている紀元節の日にその
授与式が行われたのだ。その受章がきまった日岩波は熱海にいた。岩波もその一人で
あると内示が鎌倉に来たのであるが、どういうわけか文化勲章の受章者に選ばれたと
いうことが正確に岩波に伝わらなかった。岩波は凡そのことを察したが、秘書の木俣
さんを使者にしてもしも文化勲章をくださるのならば、自分は辞退したいと、文部省に
申し出た。『他人のごぼうにて自分の法事をするが如くに考えられ』たというのである。
しかし、すでに手続きがすんで御裁可もあったことで、拝辞は出来ないということだった。
受賞が決定してから、あるとき岩波は私に、『只の賞などほしくないが、文化勲章なら
貰いたい気もした』といった。二月十一日岩波は宮中にいって、文部大臣安倍能成氏から
勲章は受け取った。あとで岩波は安倍のやつ偉そうにぼくに勲章をよこしたよ、などと
上機嫌で冗談をいった。世間一般には安倍氏が文部大臣になったから岩波に文化勲章
与えたのだと噂されたが、本当の推薦者は伊沢多喜男であったという。三月三日附で
受賞の挨拶状を出した。この長い手紙を岩波は熱海の『惜櫟荘』で作った。口述の筆記
をしたのは中学生の羽仁進君であった。」
 安倍能成さんは、旧制一高で岩波の同期とあります。岩波書店の理論的な支柱の一人で
ありました。大戦後に岩波書店で刊行を予定していた雑誌「世界」の編集主任となること
が決まっていたのですが、そのさなかに幣原内閣の文部大臣への就任となるのでした。
就任にあたっては、岩波に「世界」の編集ができなくなるとことわりに来て、岩波は
就任式に着用するモーニングを安倍氏さんに貸したとのことです。
 この就任が1月13日で、文化勲章はその一月後のことでありますので、安倍が岩波に
文化勲章を与えたといわれても不思議ではありません。小林勇さんの文中にあります
伊沢多喜男さんとは、劇作家飯沢匡さんの父親で官僚ですね。