死者を立たしめよ 6

 山田稔さん「マビヨン通りの店」(編集工房ノア刊)に収録されている、前田純敬さん
についての文章の二つ目「後始末」は、昨日に言及した「声のお便り」から一年後に発表
されたものです。
 書き出しは次のようになります。
「『前田純敬 声のお便り』では、話題をもっぱら前田との文通にかぎり、作品にはあえ
て触れるのをさけた。そして、その一文でもって前田純敬とは別れるつもりでいた。
 ところがその後どうも胸のうちが片づかない。それは作家であった前田純敬にたいし、
あのままでは礼を失する、公平を欠くという思いが物書きの端くれたる私の胸を去らな
かったからのようだ。
 そこで今回は、作品を紹介することで後始末をつけておきたい。作品論でも作家論でも
ない。私なりの、行きつもどりつの前田探しにすぎない。」
 山田さんは、「作品論でも作家論でもない、私なりの前田探し」といっているのは、
なんとなく素人であります当方などが多用するスタイルのようでありますが、もちろん
山田さんは文学の専門家でありますからして、ちゃんと作家論となっているのでありま
す。
 昨日の「声のお便り」は、前田純敬さんの奇矯なところが、すこし強く印象づけられる
ような文章となっていました。前田さんは、古いVIKINNGの同人でありましたが、富士
正晴の没後に富士正晴を誹謗するような追悼文を発表し、それが同人の顰蹙をかって、
山田さんに反駁されるとそのまま沈黙し、文通が途絶えてしまい、その後亡くなり、亡く
なったあとに送られてきていたカセットテープを聴いて、すこし前田さんの作品を読んで
みようということになったものです。
 生身の人物を知っているということが、その人の生み出した作品を冷静に評価できなく
するとすれば、評価のためには適当な時間をおくことが必要であるようです。
 筆を折ったとされる前田さんについての山田さんの解説です。
「前田は『現代のマノン』、『深い靄』とつづけて『悪作』を発表し、評価を下げる。
またそのころ、前田を高く買っていた岸田国士が、その二年後には神西清が、死ぬ。
こうして後盾をつぎつぎ失う一方、荒正人の書評にみられるように第一次戦後派からきび
しく批判され、また台頭してきた第三の新人たちともウマが合わないというか、富士正晴
のいうように相互の誤解曲解が重なって喧嘩別れする。こうして四面楚歌となって次第に
文壇から締め出されていく。いや、前田にしてみれば、自分の方から文壇を見限って
去って行ったのだ、『深い靄』のなかの作家のように。」
 山田さんにとっては「行方不明」となった感のある前田さんが、山田さんの前に姿を
あらわすのは、2004年2月に亡くなってことを新聞で知り、その年の4月、代表作が
鹿児島の出版社から刊行されたことによります。