古本屋のおやぢ 8

 「上林暁全集」には、あちこちに関口良雄さんの名前が登場しますが、これの月報でも
そうであります。関口さんは、上林さんの創作活動を支えるネットワークにおいて、
大きな存在であったようです。筑摩書房の編集者の熊木勇次さんの信頼が厚かったこと
も、影響しているのでしょう。
 関口さんの表題作となっている「昔日の客」というと、野呂邦暢さんのことであります
が、野呂邦暢さんも上林暁全集の月報に文章を寄せています。野呂さんは「失業ちゅうに
毎日のように市立図書館へ通い、乱読しているときに上林暁さんのものを初めて読んだ」
とあります。
 野呂さんが、関口さんについて記したもので一番有名なものは「山王書房店主」であり
ますが、これ以外にもありました。
「S書房主人」(「古い革張椅子」初出 西日本新聞 1976(昭和51)年5月13日)
山王書房店主」(「小さな町にて」初出 週刊読書人1979(昭和54)年5月7日)
「上林さんを訪ねる」(「増補版 上林暁全集」 第13巻月報 1978(昭和53年6月)
 全集の月報の文章の半分は関口良雄さんに導かれて上林さんのところを訪問したり、
関口さんに依頼して上林さんの本を集めるという話しになっています。
 野呂さんの月報の文章から引用します。( これは単行本未収のもののようです。)
「 十年後に私は東京の古本屋さんである関口良雄さんと再会した。大森にある山王書房
の店主である。関口さんと知り合ったいきさつは別に書いたので、ここでは繰り返さな
い。私が初めて小説を活字にしてから二年ほど経っていた。昭和41年の秋である。関口
さんが『上林暁著作目録』を造った人であることは、そのとき知った。手許には一部も
残っていないと聞いて、私は残念だった。」
 ここにある「別に書いた」というのは、西日本新聞のものとなりますね。この文章が、
単行本に入るのは1979(昭和54)年のことですから、多くの人の目に触れるようには
なっていなかったようです。
「昭和49年2月、所用で状況した私は関口さん宅を訪問した。尊敬する作家に会いたいの
は私とて同じだが、先方の面倒や都合を察するとつい気おくれがしてしまう。関口さんは
私が上林さんの読者であることを知っていたから、一度お訪ねしてはとすすめてくれた。
上林さんにも自分の方から話ししてみるという。『きっと喜ばれますよ』と関口さんは
いってくれるのだけれども、私はためらった。しかし私はめったに上京しない。この 
機会をおいてはもうお会いできないかもしれない。思案した末、私は関口さんに紹介を
頼んだ。返事はすぐに来た。日時も決まった。ところがその日になって、上林さんは
風邪を引かれ、・・・とうとうお目にかかることができなかった。」
 結局、この時はお目にかかれずで、用意してきた野呂さんの第一創作集を関口さんに
託して帰郷したとあります。その後、この本に対する自筆の礼状が上林さんから届いた
とのことです。
「関口さんは筑摩書房の倉庫にただ一冊残っていた上林さんの限定本『春の坂』を、
わざわざ社へでかけて行って手に入れ、上林さんに署名していただいて私に送って
くれた。私はお葉書をこの本の間にはさんで書架にしまった。昨年の夏、関口さんは
亡くなった。まだ59歳の若さである。関口さんは俳人であった。追悼文集が氏と
ねんごろであった人々の手で近く刊行されることになっている。山王書房が店を閉める
ことになって淋しい思いを味わった人は私の他にもすくなくないはずである。」
 関口さんが亡くなってから、野呂さんは上林さんのところを訪問します。
1977(昭和52)年12月のことです。「ある出版社の上林さんを担当する編集者に伴わ
れて」とあります。この訪問の時には「諫早にあるあなたのおうちから雲仙岳が見え
ますか。」と聞かれて、長崎、諫早雲仙岳伊東静雄などが話題になったようです。
この月報の文章の終わりのところでは、再び関口さんの名前がでてきます。
「私は関口さんに頼んで、上林さんの単行本を集めていた。初版は部数が少ないので
かなり値も高い上になかなか手に入りにくい。関口さんが亡くなってからは単行本を
諦め、全集で揃えることにした。」
 関口さんの「昔日の客」という文章が発表されたのは1976(昭和51)年6月とあり
ますので、これは野呂邦暢さんの西日本新聞へのものと、照応しているようです。
( 関口さんが上林さんを介助してドライブへといっている写真が、全集第13巻月報に
掲載されています。1967(昭和42)年4月小金井公園で撮影したものですが、これを
みますと関口さんの雰囲気が伝わってきます。)