2010 夏の読書 6

 木田元さんの「私の読書遍歴」を読んでいましたら、「友人たち」というくくり
で、中央大学に職を得てから親しくなった「生松敬三」さんと、彼と一緒に酒を呑み
にいって知り合ったのみ仲間ということで、小野二郎さんが登場します。
小野二郎は、明治大学の英文科の教授で、ウィリアム・モリスのすぐれた研究者で
もあったが、同時に晶文社の編集長として、時代に先駆けポール・ニザン
ベンヤミンの邦訳の著作集をだしたり、戦後の出版史に名を残す名編集長でもあった。
身体も大きく、私たちより髪も白いくせに、小野二郎は府立六中で生松君より二年
後輩、海軍兵学校で私より一年後輩だというので、私たちを<せんぱい>と呼び、
おだてたり、からかったりするものだったが、多読多識、話しをしていてこんな
楽しい男はいなかった。
 晶文社の社長の中村勝哉さんや、次代編集長の津野海太郎さんも一緒だったから、
晶文社の編集会議の流れだったと思うのだが、私たちがいくのといつも同じ日にその
酒亭に小野二郎も現れ、真夜中まで、時には暁方まで呑み明かしていた。小野二郎
現れると店中の客が誘いこまれ、歓楽ここに極まるという感じになるものだった。」
 小野二郎さんは、このお二人に誘われて「高山建築学校」にかかわることになった
のですが、モリス主義者の小野さんは、この学校での若手の建築家との交流を楽しみ
にしていたとのことです。
小野二郎は、石山修武鈴木博之をはじめとする若手の建築家たちをからかったり
挑発したりはぐらかしたりおだてたり、きりきり舞いさせ、実に大きな刺戟を与えた
ようである。生意気で一癖も二癖もあるこの若者たちが、そろって小野二郎に傾倒
するようになったのだから、その影響力は相当なものだったにちがいない。・・・
 そのころ私は、生松君や小野二郎と呑みながら、これからいわば老いの坂をくだる
わけだが、この連中と一緒に歳をとるのなら楽しくやっていけそうだなと、よく
思ったものだ。
 だが、昭和57(1982)年に小野二郎が突然この世から姿を消し、その二年後に
生松君も他界してしまった。・・このころ私は自分の手足が一本ずつ切りとられて
いくような気がしていた。」
 本日に本屋さんにいきましたら、小野二郎さんの義弟となる高平哲郎さんの新刊
が眼に入りました。これを立ち見していましたら、高平さんが小野二郎さんが亡く
なった知らせを聞いたときの話しがありました。働き盛りという時に亡くなると
いうのは、いかがなものでしょう。

今夜は最高な日々

今夜は最高な日々