ノアの本 4

 編集工房ノアの本ということで、ノアからでた林ヒロシさんの「臘梅の記」を
話題にしています。林ヒロシさん(1943年生まれ)が、大学での恩師でありました
大槻鉄男さん(1930年生まれ)との交流について書かれたものです。
「先生とわたし」というジャンルにはいるものですが、過去には夏目漱石とその
弟子によるもので有名なものがあります。(「先生とわたし」というタイトルから
して漱石の「こころ」によっているように思えます。)
 漱石を師と慕った百鬼園先生については、平山三郎さんが亡くなるまで仕えて
百鬼園先生の多くの作品に登場します。( 百鬼園先生の弟子逹の交わりについて
は、黒澤明が『まあだだよ』という作品にしています。)
 漱石からの山脈は、裾野も広くて日本の近代における「先生とわたし」という
師弟関係の宝庫であるのかもしれません。
 それとくらべると学半ばで亡くなった感のある大槻鉄男さんは、知名度も低く、
ほとんど忘れられた存在となっていたのですが、若き日に林さんという教え子を
持ったことは、たいへん幸せなことであります。それは、大槻さんにとってよりも、
林さんにとって決定的な出会いであったのでしょう。
 大学時代の数年間において、人生の師となる先生と出会うなんてことは、最近では
神話のようになっているように思いますが、いまでもあるのでしょうか。
 林ヒロシさんは大槻さんに誘われて「VIKING」の会員になるのですが、それが
後年になって、この作品を著すにつながっています。この「臘梅の記」の終りに
は、次のようにあります。
「大槻先生が亡くなった年の夏に鬼怒川へ行く用があって、その帰り、東京で阿部
慎蔵さん、石田和巳さん、斉藤正彦さんに会い、先生のことを想いながら飲んだ。
 次の年の夏には何日間かを京都の町中で過ごし、ある夜、四条河原町ビヤホール
山田稔さんと待ち合わせた。先生の話しをして、酔いが深まるにつれて懐かしさが
募った。
 山田さんが『大槻のことをできるだけ思い出して買いておいた方がよくないか』と
言い、ぼくは気持ちが昂ってもいてその気になった。
 素面になって不安になったが、とにかく書き始めた。
 先生のことを書きながら自分の歩んだ道を辿ることになった。書いていると先生の
言葉や様子が浮かび、普段すっかり忘れていたことが蘇ったりした。何かに突き
当たったとき先生だったらどうされるだろうかと思うことがたびたびあった。」
 これを読みますと、山田稔さんが「富士さんとわたし」にある「富士正晴
人々の生涯を調べに調べ、その事績を書き残し、それによって『死者をたたすこと
に励む』ことをおのれの文業の流儀とした。
 いまわたした校正刷りを読み返しながら、自分はこの富士流を受け継ぐことは
かなわぬまでも、せめてその影響をうけているように感じる。」という文章が
頭に浮かんできました。