本が生まれるまで5

 本日も小尾俊人さんの「本が生まれるまで」からの話題です。
「 私が出版界で過ごした年月は五十年を超えているが、もっとも親しく、日常的で、
永続的な関係をもったのは印刷所である。印刷機がなければ『ホン』というものは
生まれない。・・・・
 鉛活字と印刷機というものを初めて見たのは1930年代である。その頃は、いまは
廃語になってしまった年期奉公、徒弟、丁稚、書生などの言葉が社会的実在感をもって
いた。中小の出版印刷はとくにそうだった。個々の印刷所について、私の経験を語りた
いと思う。」とあります。
理想社印刷の現場から、遠慮ない手厳しい批判」をプラスに転じた小尾さんらしい
ことであります。
 みすず書房の発足当時の印刷所は、凸版印刷大日本印刷をつかっていたのですが、
徐々に、仕事の軸足を町工場へとうつしていくとあります。これの理由について、
次のように記しています。
「 大印刷の要求方向と小出版の営業指向が、時とともにズレていったところにあると
思う。量産による営業主義と小廻りの利く発注者重視、大部数と少部数、市場の分化
などによるクイチガイである。」
 志あるデザイナーは大手の印刷所とは組むことができないとありましたが、志のある
出版社も大手とは組むことができないようであります。大手の印刷所というのは、雑誌
とか大量印刷物しか生きる道はなくなるのでしょうが、雑誌の廃刊・休刊が続くという
のは大丈夫なのでしょうか。だからこそ、違った分野に進出しなくてはいけないので
しょう。最近、特に大日本印刷などは、ずいぶんといろんな分野にではっているものね。
 みすず書房をおこしてからは、精興社との共同作業がはじまります。
「 敗戦、そして世界が一新し、みすず書房の出立となった。そうして精興社との新し
い共同の仕事が始まった。吉満義彦『文化と宗教の理念」が第一であり、つづいて
中村元『東洋人の思惟方法」・・などが続く。このときから青木勇さんとのつきあいが
はじまったわけである。なつかしいような、ホロ苦いような思い出がさまざまあるが、
私にとっての精興社は、何よりも仕事の人、職人としての青木さんである、それも
『精興社書体の活字をめぐる青木さんが目に浮かぶ。」
 みすず書房は、精興社での印刷でありますが、この築地書館からでた「本が生まれる
まで」の印刷は「壮光舎印刷+同美印刷」とありました。