本が生まれるまで4

 小尾俊人さんは、「神田本郷、中央線沿線の古本屋さんは、わたしの先生で、
私の大学」といっているのですが、たいへんなことです。小尾さんは、自分で
独立して出版社を興しましたので、存分に力を発揮することができたでしょうが、
これが既存の岩波などでしたら、彼の経歴では、編集の仕事につくことはできな
かったのではないでしょうか。
 古本屋の原さんについてのオマージュにあたるのは、次の部分です。
「原さんは、つかずはなれず水のような淡白な関係の持続でありまして、どうして
こういうことになったのか、を省みてみますと、(1)古本の値段が適正で、高い、
と思わせることがなかった。安い、ということもなかった。(2)こちらの探しもの
をずっと記憶しておられ、後日、こちらの忘れた頃、ヒョイといわれる。つまり、
客の必要を実によく充たしてくれるのです。時間の関係が永い関係になる機縁です。
 次に原さんのお人柄というか個性です。ふつうの意味ではとても愛想がいいとは
申せませんが、このちょっと見の、外見のブッキラ棒な言い方、無関心の調子が、
またえもいわれぬ魅力なのであります。私との関係で申しますと、この一般的な
『非社交性』が、私との関係を維持する条件、つまり意味のある事柄なのでありま
して、いわば『非社交的社交性』とでもいえるかも知れません。」
 古本屋のご主人には、いまもむかしも学識ゆたかな人がいらして、客でいっても
油断できないということが、こうした文章からも伺い知ることができます。
専門分野をもっていて、その分野の学者さんなどから文献探索の相談を受けている
わけですから、これからその分野でやっていくためには、若い学者は、古本屋の
主人のめがねにかなう必要があったわけです。
 小尾さんが編集の仕事をスタートさせたのは、羽田書店においてですが、「本が
生まれるまで」のなかで、羽田書店について、次のように記しています。
「羽田書店は、その第一冊を1937年9月に出した当時駆け出しの出版社だった。
社長羽田武嗣郎は当時、政友会前田派に属した代議士だったが、岩波茂雄を尊敬し、
岩波もまた彼を愛顧し、印刷取次広告など取引先を懇篤に紹介したのだった。
飯沼正明『航空随想』、日高巳雄『軍機保護法』、松田甚次郎『土に叫ぶ』など
初めの出版物はすべて岩波が発売所となっていた。」
 岩波の紹介とあって、羽田書店は、一流の印刷所などと組んで仕事をすることに
なるのですが、理想社印刷の現場のかたからは「仕事のやり方すすめ方について、
こころおきない遠慮ない手厳しい批評を加えられた」とあります。
 あと一つの学校は、岩波の出版物であるようです。
「 岩波は出版界において、当時、造本技術的にも内容的にも最高のレベルにあったと
思う。当時の、昭和14年岩波文庫解説目録は、今も目に浮かぶ。1935ー40年の
出版物の高みとともに、何という教育的な力を私に及ぼしたことであろう。
それに対する私の感謝は永遠に消えない。」