国語の教科書20

 丸山真男の「『である』ことと『する』こと」は、レベルの高いことを、極めて
読みやすい文章にしたものになっています。どうすれば、このようにコンパクトに
できるのかと思いますね。
 この最終章では、福沢諭吉の文章の、すこし長い引用からはじまりますが、「日々
のをしへ」という題の文は、「諭吉が維新のころ、幼児のために書き与えた」とあり
ます。
「維新のころ、幼児のために書いた」ものが、それから100年後には、高校生が読む
というのは、それだけ幼稚になっているからでしょうか。
 最近は、福沢諭吉だけを先生と呼ぶならわしにしている人が、あちこちで活躍をして
いますが、福沢先生の「日々のをしえ」(丸山の引用によります。)には、次のように
あります。
「 人の貴いと賤しきの区別は、ただその人のする仕事のむすかしきとやすきによる
ものゆゑ、いま、大名・公卿・さむらひなどとて、馬に乗りたり、大小を差したり、
形は立派に見えても、その腹の中はあきだるのやうにがらあきにて・・・ぽかりぽかりと
日を送るものはたいそう世間に多し。なんと、こんな人をみて貴き人だの身分の重き人
だのいふはずはあるまじ。ただこの人たちは先祖代々から持ち伝へたお金やお米がある
ゆゑ、あのやうにりっぱにしてゐるばかりにて、その正味は賤しき人なり。」
 丸山は、この文章が「家柄や資産などの『である』価値から『する』価値へという、
価値基準の歴史的な変革の意味が、このようなそぼくな表現の端にも、あざやかに浮き
彫りにされております。」と評しています。
 これに続いて、このように書いています。
「伝統的な『身分』が急激に崩壊しながら、他方で、自発的な集団形成と自主的
コミュニケーションの発達が妨げられ、企業と討論の社会的基礎が成熟しない時に
どういうことになるか。続々とできる近代的組織や制度は、それぞれ多少とも閉鎖的な
『部落』を形成し、そこでは『うち』のメンバーの意識と『うちらしく』の道徳が大手
を振って通用します。しかも一歩『そと』に出れば、武士とか町人とかの『である』
社会の作法はもはや通用しないような、あかの他人との接触が待ち構えている。・・・
わたしたち日本人が『である』行動様式と『する』行動様式とのごった返しの中で、
多少ともノイローゼ症状を呈していることは、すでに明治末年に漱石が鋭く見抜いて
いるところです。」
 明治維新の時代と同じような変革が、日本社会にあったのは先の戦争に負けたとき
にあったといわれていますが、戦争に敗れたことによる変革は、戦勝国の力を借りて
のものでした。 
 政治的には、戦後初の選挙による政権交代が実現したといわれますが、この中身は、
「先祖代々から持ち伝へたお金やお米があるゆゑ、あのやうにりっぱにしてゐるばかり
にて、その正味は賎しき人なり。」と喝破した福沢の時代とどう違っているので
しょう。