日本語のために 2

 池澤夏樹さんの日本文学全集「日本語のために」は、とても刺激的なものです。

 あいかわらずでのつまみ読みですが、昨日は「政治の言葉」という章にある丸谷
才一さんの「文章論的憲法論」を目にしていました。このような講演があることは、
これまで知らずでした。初出はどこかはわかりませんが、底本は「丸谷才一批評集」
第六巻「日本語で生きる」とありました。丸谷さんの批評集がでて、関心のある巻は
購入したのですが、この巻は購入しておりませんでした。
 ちなみに「政治の言葉」に収録されているのは、次のものとなります。
  大日本帝国憲法
  終戦詔書   (原文と高橋源一郎訳)
  日本国憲法前文 ( 池澤夏樹訳)
  言葉のお守り的使用法について 鶴見俊輔
  文章論的憲法論  丸谷才一  
 池澤さん、高橋源一郎さん、鶴見俊輔さんと続くのでありますから、その立場は
はっきりとしているのですが、それはそれとして「終戦詔書」の高橋訳を読んで
みますと、このように読むことができるのかと思いました。(高橋訳は、ひょっと
して、先日の天皇のお言葉に雰囲気が近いかもしれません。)
 この高橋訳に関しては、「終戦詔書」をこのように読むのは誤りであるという
声が聞こえてきても不思議ではないと思いますが、元々の「詔書」がわかりにくい
文章でありますからして、高橋さんと対極の立場にある人が訳したものも目にして
みたいものです。
 この「終戦詔書」について、池澤さんは解説で「日本国憲法に先立つ戦後日本の
基礎である。高橋源一郎訳を熟読されたい。」と書いています。高橋訳は、天皇
国民に語りかける内容となっていました。
 そこで丸谷さんのものです。「現行憲法の文章は悪文であり、それに比べて明治
憲法の文章は立派なものである」という定説に異を唱える丸谷さんであります。
( 明治憲法の文章は立派という定説を後押ししているのは、三島由紀夫さんの
文章読本だそうです。)
 丸谷さんの文章から終わりのところにおかれたところを引用です。
「 われわれは文章表現をする場合、自分が語りかけようとする相手は自分と対等の
人間であると考へ、その人格を充分尊重しなければならない。そのやうな相手に
向かって、相手がわかるやうにきちんと話をしなければならない。威張りちらして
高飛車に構へるのでもなく、へり下って卑屈に言ふのでもなく、論理的に語らなけれ
ばならない。考へてみれば当然の話ですが、このやうな対人関係の原則が、つい最近、
国民の共通の財産となりかけてゐて、それゆゑにこそ、日本人はごく普通の人でも
わりに文章が書けるやうになったのではないか。」
 高橋訳の詔書は、「自分が語りかけようとする相手は自分と対等の人間であると考
へ、その人格を充分尊重しなければならない。そのやうな相手に向かって、相手が
わかるやうにきちんと話をしなければならない。」というふうになっているように
思うことです。