国語の教科書9

 梅棹忠夫「発見の手帳」の書き出しは、昔に読んだ小説本についてです。
「 あの本のことを思い出して、書庫を捜してみたが、いつのまにかなくして
しまったらしく、見あたらなかった。メレジュコーフスキーの『神々の復活』と
いう本である。
 わたしがこの本を読んだのは、高等学校の学生の時で、もう二十年以上も前の
ことである。あるいは今でも新版がでているかもしれないと思って、I文庫の目録
をめくってみたら、やっぱりあった。米川正夫さんの訳で、昔どおりの四冊本で
でている。
 それは、レオナルド=ダ=ビンチを主人公にした長編小説である。非常な感動
をもって読み終えたことを今でも覚えているが、なにぶん昔のことだから、具体
的な内容についてはおおかた忘れてしまった。」
 梅棹忠夫1920年生まれ、この文章が岩波「図書」にのったのは、65年4月
で、当方が教科書で読んだのは67年のことになります。
文章が書かれた時には、岩波文庫目録にまだ掲載されていたとあります。
旧制高校生が夢中になって読んだ小説というのは、どんなものかと興味を引く文
章になっていまして、いつかこの作品を手にしたいものと思ったものです。
当方が岩波図書目録を見るようになったのは70年くらいからですが、その時には、
この「神々の復活」は品切れであったように思います。ずいぶんと前から、年二回
岩波文庫の品切れ本の復刊を行っていますが、これまでのところ「神々の復活」は
でていないように思います。
 翻訳が古いか、梅棹は絶賛するものの、内容はそれほどでもないというのが、
岩波文庫編集部の評価なのでしょうか。
( 日本の古本屋で検索をしましたが、岩波文庫としては古書価が一番高いほうの
ものでしょう。)
「 ところで、『神々の復活』に感動したのは、わたしばかりではなかった。
わたしには、幾人かの親しい友人のグループがあったが、みんな次々にこの本を
読んで、それぞれに強く感動した。青年たちは、ダ=ビンチの偉大なる精神に
魅せられて、それぞれにその偉大さに、一歩でも近づこうとしたのである。
ただ、その接近法は、人によって違っていた。
 今は東京工大の教授になっている川喜田二郎君なども、その時のグループの
ひとりだが、かれはもともと左ききだった。ダ=ビンチが左ききだったという
事実は、かれをダ=ビンチに結びつける大きい力となっていたかもしれない。
かれは『神々の復活』を読んで以来、左手で絵をかくのが目立ってうまくなった
そうだ。」
 ダ=ビンチが左ききで、鏡文字でのメモをたくさん残しているというのは、
有名な話しでありまして、左ききは、本当は器用な人であるというときの
代表にあげられます。
「 『神々の復活』に出てくるダ=ビンチは、もちろん、よく知られている
とおりの万能の天才である。・・・
 高校生だったわたしには、この偉大な天才の全容はとうてい理解できなかった
けれど、かれの精神の偉大さと、かれがその手帳になんでもかでも書き込むこと
との間には、たしかに関係があると、わたしは理解したのである。それでわたしは、
ダ=ビンチの偉大なる精神にみずからを近づけるために、わたしもまた手帳を
つけることにした。
 わたしはこうして、手帳をつけるという習慣を獲得し、その習慣は、二十数年
後の今でも、消えることなく続いている。」 
 この手帳のことを、梅棹は「発見の手帳」と呼ぶのですが、なんとはなしに
見たり聞いたりしたものについてメモをつけるためのものであるように思い
ますが、実際はまったくことなります。
「何事も、徹底的に文章にして書いてしまうのである。小さな発見、かすかな
ひらめきをも逃がさないで、きちんと文字にして残そうというやり方である。
・・『発見の手帳』をたゆまずつけつづけることは、観察を正確にし、思考を
精密にするうえに、非常によい訓練法であったと、わたしは思っている。」