国語の教科書10

 梅棹忠夫は、岩波新書で「知的生産の技術」なんて本をだすのですから、アカデミズ
ムにどっぷりつかった学者とは、ずいぶんと違った印象を受けます。60歳代の半ば
から眼を悪くされて、その後は十分な活躍ができなかったようにも思います。
 梅棹の「発見の手帳」は、旧制高校の時の習慣を二十数年後にあっても続けていると
あります。さらっと書かれていますが、それは次のようなことでありまして、普通の人
にはなかなか出来ることではないようであります。
 「心覚えのための短いフレーズの連続というのではなく、ちゃんとした文章である。
ある意味では、そのままで小さな論文ーないしは論文の草稿ーとなりうるような性質の
ものである。少なくともそういう体裁を整えている。そのような豆論文を、毎日、いろ
いろな現象をとらえて、次々と書いてゆくのである。たまってみると、それは、わたし
の日常生活における知的活動の記録というようなものになっていった。」 
 つぶやきのような文章のまとまりでありましても、二十数年にわたって書き続けると
いうと容易なことではないでしょう。まして、日々、小さな論文のようなものを書いて
いくというのは、ほとんどの人にとってできることではありません。
梅棹であっても、これを可能とするためには、突然やってくる「発見」を記録するため
の装置をいつも身につけていなくてはいけなくて、大学ノートはポケットにはいらず、
小さな手帳では小論文を書くには小さいので、いろいろと考えて次のような形となった
とのことです。
「 けっきょく、新書判のたけを少し短くしたくらいの大きさで落ち着いた。
 もう一つ、机がなくても書けるという条件を満たすために、表紙には思い切って厚い
ボール紙を使ったほうがよい。そうしておけば、ページを開いて左手でささえて、
立ったままでも書ける。かなり長期に持ち歩くものだから、製本はよほどしっかりして
いる必要がある。中の紙には、横線があればよく、日付そのほか、よけいな印刷は
いっさい不要である。市販のものには、なかなかいいものがないので、注文で気に
いったものを作らせて、グループで分けたこともあった。」
 自分たちの気に入るものがないので作ってしまうというのが、いかにも当時の京大
グループらいしいことであります。この京大式カードというのは、一般にも市販され
て、「知的生産の技術」を読んで、この京大式カードに手を染めた方もおられたように
聞いています。
 梅棹がもうすこし儲け主義であれば、システム手帳のようなものを生み出していた
ように思います。また、この時代であればコンピュータを利用してのデータベース
システムを開発して提供してくれたのではないかと、そんなことを夢想してしまい
ます。