宮内嘉久追悼7

 古い新聞を整理していましたら、05年10月24日に掲載された加藤周一さんの
夕陽妄語」がでてきました。このときのタイトルは「廃墟から」というものであり
まして、宮内嘉久さんを取り上げていました。
 宮内さんの「建築ジャーナリズム無頼」が中公文庫からでたときに、その解説を
加藤周一さんがのせていて、これはどうしてと思ったのですが、それに先立って、
この文章があったのでした。これが掲載された新聞を保存にまわしていたのですが、
この文章があったことすら忘れていました。
 加藤周一さんによる、この文章の書き出しは、次のようになります。
「60年前の東京(の大部分)は焼け野原であった。それは軍国日本が起こした15年
戦争の結果であった。その廃墟を眺めながら何を考えたかは、その人による。
ある人々はそれまで信じてきた神話や価値や修辞法が自宅や食料とともに失われたこと
に、呆然自失してた。またある人々は、歴史を歪曲し、現実を隠蔽してきた権力から
解放され、すべてが焼き祓われた東京の『サラ地』の上に、新しい自由な街を建設する
希望に燃えていた。」
 この文章は、宮内さんの「前川國男 賊軍の将」が刊行されたのを気に書かれた
ようです。
「『廃墟』といい、『無頼』といい、『賊軍』というこの三語は、著者の60年間の
態度の一貫性を明示して余りあるだろう。
 原則として、すべての少数派は『賊軍』であり、天下の大勢に抗するのは『無頼』
である というのが、和を以て貴しとするこの国の文化的伝統であるとすれば、その
伝統を破る希望が生じたのは『廃墟』においてであった。・・・
 なぜ私は前川國男 最初の評伝、宮川嘉久氏の『前川國男 賊軍の将』の頁を繰り
返し読んだか。その一字一句にも廃墟からきた人間の、つまり私の同時代人の血脈が
感じられたからである。」
 どう考えても時代は、「廃墟から」のリセットにむかっているようにしか思えない
ことであります。かっての「廃墟」は、戦火によってもたらされたものでありますが、
バーチャンルな「廃墟」を体験することで、リセットはかからにものでしょうか。
 加藤周一さんは、「廃墟から」という「夕陽妄語」の文章の終りを、宮内さんが
前川國男さんについての著書の最後に引用されている「フランス18世紀のモラリスト
セナンクールの渡辺一夫訳」としています。
「 人間は所詮滅びるかもしれず、残されたものは虚無だけかもしれない。しかし
抵抗しながら滅びようではないか。そして、そうなるのは正しいことではないと言う
ようにしよう。」