宮内嘉久追悼6

 宮内嘉久さんは、建築雑誌等の編集を専門としているのですが、そのためには個人で
編集事務所を組織して活動を行っていました。この事務所では、美術出版社がだすこと
になった「国際建築」と「建築年鑑」の編集を請け負っていたとあります。
 こうした編集事務所は、65年当時はずいぶんと珍しいものであったようです。
 美術出版社との連携は、大下社長の死による会社の方針の変化で解消されて、宮内
さんは、みずから手をかけて企画した「建築年鑑」の刊行を、どのようにして継続す
るかということを考える必要になったと、「少数派建築論」にはあります。
「 それまで『年鑑』に協力してくれた多くのひとびととも相談の結果、その方たち
の援助を得て、自主刊行の形で『建築年鑑』の継続を図ることにぼくは踏み切ったので
ある。1967年夏であった。
 その刊行母体として株式会社組織を採り、またその名前を『建築ジャーナリズム研究
所』としたのはぼくの責任である。たんに『年鑑』の継続刊行を意図するだけでなく、
この機会に、むしろかえってある種の根拠地をつくりだしたいという幻想がぼくのなか
に働いていた。20年前の卒業計画の亡霊が、この現実の危機のなかで、ぼくを非現実な
錯覚に導いていった。・・・
 しかし、わずか二年ののち、『建築年鑑』二冊と山口廣著『解説・近代建築史年表』
を送り出したのみで瓦解した。企業体としての経済的破綻と、それに伴う『労使紛争』
、そしてその底にある内部の思想的対立(いや、もっとどろどろとした人間的対立を
底流とした)とが原因である。最後の大衆団交(といってもごく少人数の、しかし
内部の編集労働者を支援するグループによる『研究所」の占拠・封鎖という実力行使を
目前に控えた)の席上で、代表者(「代表取締役社長」!)かつ管理者たるぼくは、
編集労働者側の切り札として出された『建築ジャーナリズム研究所の解体』要求を
みずから進んで認めた。」
 この時代は、いくつかの出版社において編集権の問題などで労使紛争が多発して、
話題になりました。その結果、会社から飛び出した編集者が会社をつくったり、編集
事務所を立ち上げたちしました。
 吹けば飛ぶような会社であった「建築ジャーナリズム研究所」のことは、当時知り
ませんでしたし、まして、その会社で紛争があったということは全く知りませんでした。
組合員からいわれて研究所を解体するとしたわけですが、もともと経営的にもつまって
いたということがありましたので、社長にとっては、そちらのほうが大変でありました。
「 実質上の解体を、であって、そのとき言明したように、当時巨額の負債の返済を
迫られていた法人格を、一挙に名前まで消しさって形式上も解体させることはできる
ことではなかった。しかしこの時点で、法人の負債および出資金の一切は事実上、
責任者であるぼく個人の債務に切り換わった。」
 そもそも宮内さんが経営者としてやっていくということには、日頃の持論からし
無理があると思うのでありますが。