宮内嘉久追悼4

 60年代後半の反乱の時代に、学生の主張に同調した大学教員は、造反教官とか呼ばれ
たものでありました。自己否定を通していくと、教師であることを辞めることしか道が
ないという難儀なものです。
 宮内さんは大学教師ではありませんでしたが、学生の提起をまともに受け止めて
います。
「 68−69年の大学闘争の初期に都市工学、建築の学生たちが、全共闘運動の過程で
提起した鋭い批判の刃は、現在けっして見失われたわけでなく、さまざまの形の
エネルギーとなって確実に共有され、伏流していることも事実である。
 けれども、はたして権力にとっての建築家でなはないところの建築家像とはなにか、
そのような存在としての建築家は果たして何が可能か、という点については、かならず
しも明確ではない。少なくとも丹下に代表されるイメージに対比して、そのことは認め
ざるをえないであろう。・・
 丹下が権力に対してそうしたように、形は違っても、ぼくらにとっての建築家は、
革命を志向する広汎な闘いの戦線に対して、彼の想像力をもって寄与すべきではない
か、ということである。」
 丹下というのは、日本の高度成長時代の建築界のどん「丹下健三」のことであります。
丹下のようなありようというのは、イメージしやすいのですが、「革命を志向する広汎
な闘いの戦線に対して、想像力をもって寄与すべき」というのを、この文章が書かれた
時代に目にしても、ちんぷんかんぷんであります。
 宮内さんが否定する現代の建築家像というのは、次のようなものです。
「 徒弟時代をなるべく早く切り上げて自分の事務所を構えること、いいコネをつかま
えて『経営』を安定させること、仕事が入れば人手をふやし、ふえる人件費をまかなう
ために『営業』に腐心せざるをえないこと、そしてケンチクケンチクとあたかも大事は
ほかに何一つないかのごとき顔をしているだけならまだしも、政界、財界からはては
小役人の顔色までうかがって『建築実業家』としてのとりなしに汲々たること等々」
 このようでない建築家といえば、思い浮かぶのはデビューからまもなくの安藤忠雄
ありようです。宮内さんは、安藤忠雄について、どのような評価をしているのでしょう。