建築家の本 3

 建築家というのがあれば、土木家というのもあればいいのにです。建築事務所という
言葉からは、建築士が働く設計事務所が思い浮かびますが、土木事務所というと重機
などが敷地にならんでいて道路などを保守するお役所の出張所が思い浮かびます。
 独立自営の土木家という看板をあげても、どこからも仕事の依頼はこないでしょう。
 独立して看板をあげても、仕事がないのは建築家も同じであるようです。伊東豊雄
さんについて書かれた瀧口範子さんのちくま文庫を見ていましたら、次のようにあり
ました。
「伊東の卒業は1965年、東京オリンピックの翌年だった。日本初めての高層ビル、
霞ヶ関ビルホテルニューオータニが竣工した頃だった。当時の建築学科卒業生約40人
のうち、アトリエ系事務所に就職したのは十人程度という。あとは組織設計事務所
二人、ゼネコンに十人、建設省や住宅都市整備公団などの役所に四人、残りは学者を
めざして大学院に進んだ。アトリエ系事務所は給料が安い、家庭が恵まれていなけれ
ば採れない選択肢だった。」
 組織設計事務所というのは大手の設計会社でありまして、アトリエ系というのは、
独立自営の建築家がおこした事務所でありますね。伊東豊雄さんは、大学を卒業して
菊竹清訓事務所にはいるのですが、当時、菊竹さんは丹下健三さんを追って、日本を
代表する建築課になるといわれていたそうですが、ここですら、仕事とくらべると
給料は安かったのでありましょう。
 伊東さんは四年後に、この事務所を離れて独立するのですが、この当時の建築界に
ついては、次のように書かれています。
「当時の建築界と言えば、一方にメタボリズムの余韻を引きずる都市計画者や国家事業
計画者としての建築家がおり、他方住宅作家がいたが、後者の大半は、婦人雑誌が好ん
で取り上げるようなしゃれた住宅を設計するだけで、建築論が成立するプラットフォーム
を持ち合わせていなかった。篠原は、日本伝統論、空間論などを駆使して、孤高に住宅
建築論を生み出そうとしていたのである。
 伊東が篠原のアプローチに惹かれる理由もあった。ほとんど仕事がない伊東のところ
に、たまにやってくる仕事は知り合いの小さな住宅を設計すること以外になかったから
だ。
 磯崎新黒川紀章ら、丹下の門下生のところには公共建築をはじめ何かと仕事があった
が、伊東の世代が活躍すべき頃になって、時代の空気はすっかり変わった。」
 70年代に独立した建築家は、オイルショックといわれた経済停滞の世界に飛び出した
のでありますからして、苦戦は覚悟であったのかもしれません。