宮内嘉久追悼5

 宮内さんには、「少数派建築論」(「井上書院」74年刊)という著書があります。
当方が、この本を手にしたのは、「廃墟から」を読んだ後でありましたが、「少数派
建築論」のほうが、先にでているのであります。
「廃墟」と「少数派」というのは、宮内さんに近づくためのキーワードであります。
これに加えるとすると、それは「へそまがり」であるのかもしれません。
「少数派建築論」冒頭におかれた文章は、小学校から大学時代を回顧したものですが、
「方向感覚」と題されています。それには次のようにありました。
「 次第に険しくなる状況のなかで、ぼくは身辺の隣組の小愛国者たちや、また
『動員』先の工場のミリタリストとか憲兵の存在を憎悪しながら、スタンダール
読みふけり、竹針を削っては音を殺してクラシックの世界にひたりこみ、さもなけれ
ば悪友どもの溜りになっていた東玉川の家で、燈火管制の暗幕を引いてマージャンに
現つを抜かすような日々を送っていた。・・・・・
 ぼくはいっぱしの『非国民』であったし、ゲートルばきでの登校など、おかしくって
ただの一度もしたことはない。しかしそれはやはり少数派であった。そして少数派への
風当りは強く冷たいものであることを、時としてはそれはこっぴどい目にあうという
ことを、ぼくとぼくの友人たちは、そのころ身をもって味わったのである。」
 これは旧制高校時代のころです。超エリートであることが、こうした少数派である
ことを可能にしているといえるでしょう。
 上記の文章には、後年に現実のものとなる「建築ジャーナリズム研究所」は、卒業
計画のモチーフであったとあります。 
「 編集者を軸として批評家、歴史家の自由な連合を主体とする、既成のアカデミーに
拮抗する拠点としてのそれ、編集と研究と運動を一つの環に結びつけ、ジャーナリズム
を通して未来の建築の健康な質を指向するに足るところのそれ、を夢に描いてぼくは
懸命に墨入れをした。」
 宮内さんは、フリーの編集者として「建築年鑑」を企画し、創刊するのですが、これ
のスポンサーとなっていた美術出版社が社長の事故死(66年2月全日空の羽田沖での
事故。業界のツアーで札幌雪祭りにいっていた出版社社長が何人かなくなった。)に
より、スポンサーを降りることになって、「建築年鑑」を刊行するための会社を興さ
ざるをえなくなったのです。