宮内嘉久追悼3

 ミニコミ<廃墟から>は、何度か中断をしながら継続していたようですが、単行本に
収録されているものをみますと、22号から23号までは、10ヶ月もかかっています。
(いつもであれば3ヶ月に一回くらいでているのですが。)
 この23号では、「再出発」というタイトルで、次のように書いています。
( 74年10月21日刊 )

「一休みして新しい形を工夫しようという心積りは裏目に出ました。物事はただ
続けばいいというわけではありませんが、才覚もないのにへたな細工は無用です。・・
 私事にわたりますが、身からでた錆でやむをえないこととはいえ、この夏は建築
ジャーナリズム研究所解体の『敗戦処理』をめぐって、五年目の惨たんたる想いを
味わいました。その日々にも、この<廃墟から>を書き続けることに、萎える心の
支えを見出そうとする自分を見つけました。ぞっとしない話しで恐縮です。ただ、
これはぼくにとって、辛うじて踏みとどまる一線にちがいありません。」

 この時に、宮内さんは48歳であります。「建築ジャーナリズム研究所」の解体は、
これより5年前、69年のことですが、この解体には、当時の時代が反映している
ようです。(中公文庫には、それについての言及があったかもしれませんが、
いまは手近にありませんので、確認ができておりません。)
 「研究所」を解体したことが、このミニコミを始めることのきっかけのようにも
思えます。ミニコミ<廃墟から>の第1号は70年11月には、次のようにあります。

「 きわめてぶざまなぼく自身の在りようからの帰結に、自滅という観念がふさわ
しく思われただけのことである。ありていにいって、格別なんらかの自己規定を
しなくとも、ぼくの選ぼうとする道は、あまり繁昌とか栄誉とかにはつながらない。
もともといまの方向をきめたときからそうであったし、右するか左するかという
二者択一のさいには、いつもおのずとどちらかといえば、滅びの型のほうをたどって
きたように思う。それが大きく違ったのは<国際建築>の休刊という事態に処した
ときの態度であった。(『建築ジャーナリズム』という己の幻想と『株式会社』と
いう現実との組織形態とを短絡させた瞬間に、ぼくは道をまちがえた。それは
1967年のことであったが、しかしこれについてはいまは詳しく触れようとは思わ
ない。)」
 68年から70年という時代に、このように向き合った大人もいたのでありますね。