本日の新聞朝刊に「芸術院」新会員の顔ぶれがでていました。
この芸術院というのが具体的にどのようなものであるのかよくわかりませんが、
「芸術の殿堂」にはいるというような意味合いでしょうか。「野球の殿堂」入りと
いうことですと、スポーツ記者などの投票によるものであったと思いますが、芸術院の
会員選出は、内輪の選考でやるのでしょう。
ほかの栄誉で年金のような金銭の給付をともなうものは、「文化功労者」くらいの
ものでしょう。「芸術院会員」で「文化功労者」というのは、両方の給付をあわせて
受けることができるのでしょうか。
芸術院会員も文化功労者も、どちらも国家権力がかかわっての栄誉賞であるので、
それは主義として受けることができないという立場の人々が戦後の文化人のなかには
ありました。たとえば、大岡昇平は自分は戦争で捕虜となったが、「生きて虜囚の辱め
を受けず」という教育を受けた自分としては、とっても面目なくて、国から表彰を受け
ることはできないといって断ったのでした。
かっては会員に推挙されてから辞退なんてこともありましたが、最近は受けることが
はっきりとしなくては推挙もされないのでありましょうね。
前にも引用をしましたが、小島信夫さんの「残光」には、「大庭みな子」さんを通じ
て文化功労者を受諾するかどうかの打診があったとありました。
「 あなたが功労者になりそうなのですが、なったら断りますか、どうしますか。
きまってから断られるとみんな困るのですが・・・」
芸術院会員を辞退したメンバーには武田泰淳、木下順二、大岡昇平とありました。
ノーベル文学賞は受賞した大江健三郎も、こちらは受ける考えはないといっているよう
に思いました。なかなか難しいものであります。
わかりいいのは、百鬼園先生の場合でありまして、その断りの理由は以下のもので
ありました。
「御辞退申シタイ ナゼカ 芸術院ト云フ会ニ入ルノガイヤナノデス ナゼイヤカ
気ガ進マナイカラ ナゼ気ガススマナイカ イヤダカラ」
このようにいって通用するのは、ふだんから変人、わがままという評価が定着して
いるからでありましょう。
どちらにしても、戦後の文化人にとっては時の権力者との距離の取り方には、微妙な
ものがあります。