文芸ブルータス 6

 重松清さんの小説「また次の春へ」につっこみをいれています。小説は何をどのよう
に書いてもよろしであるとは思うのですね。小説にあまり考証を求めては、小説では
なくて論文のようになってしまいますでしょう。
 そのむかし時代考証がうるさくいわれたとき、時代小説を書いている作家などは、
時代考証を専門にする著作家によって、考証のあやまりをたくさん指摘されていた
ように思いますが、最近の書かれた時代小説に対して、考証がなっていないなんていう
人はいないのでしょうか。
 リアリズム小説であるかどうかは別にしても、大西巨人さんとか大岡昇平さんなどは、
ずいぶんと細部に対するこだわりがありましたね。細部にこだわりすぎるがゆえに、
作品は少ないともいえます。多作の作者に対して、細部にこだわった作品をと求めるの
は、魚屋で野菜をくれというようなものか。
 その作品が面白いかどうかは、別の問題でありますが、大岡昇平さんの「成城だより」
1985年8月2日の記載から「堺港攘夷始末」に関する部分の引用です。
「午後二時、中公高橋善郎君、牛肉、ソーセージなど差入れ品と共に来る。『堺港攘夷
始末』四十五枚渡し。今月はフランス兵の堺に来りし理由につき、外務省文書、海軍省
文書の矛盾と、日本側にては土佐藩郷土史家の見ぬふりをせる文献を呈示す。わが力作
の特色、諸文献を比較してそこに劇的緊張を見出すにあり、と威張る。」
 そういえば、細部のこだわりの人たちは、論争もよくするのでありました。