老年の文学2

 小島信夫さんの私生活は庄野潤三さんとはちがって「夫婦の晩年の理想の生活」
とはいえなかったようであります。
「息子は末期のアルコール中毒患者であり、妻は何年も前から、今や八王子の自分の家
からも、今までの病院からも追い出される彼を国立の家へ引き取ることを考え、同時に
一方において心の中で抵抗した。・・・・
 私の妻は昨年の雪の降り出す前に、東京近辺の施設というか、ホームというか、
たぶん混じり合ったと思えばよいところから、群馬県の沼田からもっと奥まった高い
場所にある同じようなところに移った。寒い間は雪がつもっていて行くことができない
ので、まだ訪ねたことがなかった。」(「残光」より)
 小島信夫さんの晩年の作品は、作中に私が登場するのでありますが、これが私小説
手法ではないので手強いのであります。
「平成6年頃ではなかったか。会の途中、休憩室で休んでいると、私より一廻り年下の
大庭さんがぼくにヒソヒソと、『あなたが功労者になりそうなのですが、なったら断り
ますか、どうしますか。きまってから断られるとみんな困るんですが・・』といった。
・・こうしてあらゆる幸運が手伝って、私は映画監督の市川崑やマンガ家とともに
『功労者』になった。
 この大庭さんは三十八歳あるいは三十六歳だったか、世に出てから、互いに文学上の
つきあいがあり互いに励ましあったということは知れており、またじっさいにそうで
あった。彼女は絶妙ないい方などをした。
『小島さんはイジワルで悪人ですけど、ご自分に対してもそれ以上にイジワルですか
ら、けっきょく善人よ』
 これは数年前の『群像』での対談の中でいっているが、そうした意見はモチロン公的
なものであった。」
 大庭さんも作品のなかで、小島さんにエールを送ったりしているのですが、大庭さん
からのエールにはおもいがどんとはいっていて、大庭さんの口述を筆記するご主人の
心境やいかにといわれていたように思います。小島さんは「互いにはげましあったと
いうことは知れており」と書いていますが、小島さんの奥様も大庭さんと同年のようで
ありますから、お元気であったときに嫉妬などはしなかったのでしょうか。
 文学的盟友というか文学交友録というと、中野重治佐多稲子さんのことを思い浮か
べますが、こちらのほうは内に秘めていたように感じます。時代と世代の違いでしょう
か。