シベリア抑留3

 戦争が終わって5年ほどしてから生まれた当方には、シベリア帰りとか、
満州からの引揚者というのは、身近な存在でありました。特に、小学校の時に
移り住んだところは、都市近郊の開拓地でありましたが、そこの人々は皆が
満州からの引き揚げ者でした。当方は、そのころは満州開拓に興味を持って
いなかったので(小学校5年生くらいですからね。)、満州の話しを聞くことも
なしでしたが、満州からの引揚者たちは、集団であちこちに入植して、国内でも
開拓に従事していたのです。戦後にいたるまで開拓されずに残っていた土地で
あるからして、条件は全然よくないのですが、それでもそこしか生きる場所は
なかったのですね。
 
「 シベリア抑留者の数だけ多くのシベリアがある。私は全シベリア抑留者の
気持ちを代弁してやろうなどというような大それた望みは持ったこともない。
これから持とうとはおもわない。私には、香月泰男のシベリアしかない。ごく
個人的な体験を語る気持ちで、それを画布に表現してきた。」
 上に引用したのは、画家 香月泰男さんの「私のシベリア」からであります。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界

 香月さんは、この本で自らの収容所体験を記しています。
「 私は一年半ほどの間に、三つの収容所生活を体験したが、収容所によって、
また部隊によって、その生活には驚くほどの開きがあった。後に聞きあわせた
ことから判断して、はじめの七カ月をすごしたセーヤの収容所は、シベリアでも
最悪の部類に属するようだが、後半に過ごしたチャイナゴルスクの収容所は
かなり楽なほうだったようだ。もちろんセーヤより過酷な条件の収容所もかなり
あったと聞く。私とは比較にならぬほど長期間の苦役に従わされた人たちもあろう。
その人たちには、わたしのシベリア体験なぞ物の数ではないと思えるかもしれない。」 
 瀬島龍三さんは例外としても、長谷川四郎さん、高杉一郎さん、石原吉郎さん、
内村剛介さんと著名な抑留者は、みなロシア語を理解した人でありました。
ロシア語のおかげで、生き延びることができたという側面もあるでしょうが、その
反面、抑留が長期となったいうこともいえるでしょう。