シベリア抑留2

 シベリア抑留のもとになった戦争が終わって、すでに60余年がたっています。
兵士として従軍した人たちも80代になりました。抑留者で、証言をしている人は
ほとんどが当方の父の世代となります。戦争に敗れていろいろな場所で武装解除
され、兵隊たちは捕虜となりましたが、旧満州にてソ連の捕虜となった人は、それ
から収容所おくりとなって、数年間も過酷な強制労働に従事することになりました。
 戦後まもなくにおいては、ソ連の社会体制(スターリン支配)への批判をしに
くい状況が国内にあったせいもあって、抑留を批判的に記した文書は発表されま
せんでした。
 それにしてもなぜ抑留と強制労働なのでしょうか。それについて栗原さんは
次のようにいっています。
ソ連は、あるいはスターリンは、なぜ多数の日本人を抑留したのか。まず背景と
して知っておくべきは、帝政ロシア時代にまでさかのぼる。この国の強制労働依存
体質だろう。シベリアはロシアの流刑地であり、囚人らによる強制労働によって
開発されていった。それは革命後、スターリンにも継承された。
 さらに1945年当時、ソ連は自らがいうドイツとの『大祖国戦争』に勝利したもの
の、2000万とも3000万ともされる膨大な犠牲者をだした。復興に必要な、労働力が
不足することは明白であった。その状況で、スターリンソ連は膨大な数の捕虜を
得たのである。」
 スターリン支配下ソ連に対する評価は、現在、最低レベルでありますが、世界
大戦が終わったときは、スターリンは救世主のような存在であったのですから、
このことも、抑留者たちが日本に戻ってからの人生に影響を及ぼしているのであり
ました。
 詩人」「石原吉郎」さんの抑留をとりあげた「畑谷史代」さんの本には、次の
ようにあります。
「抑留者たちは否応なく、東西冷戦下の政治状況を背負わせられていた。ソ連は、
抑留中の日本人をソ連支持者に再教育する『民主運動』を、ラーゲリで組織した。
抑留者の多くが『ダモイ(帰国)』を早めるためにはそれに加わったが、なかには
共産主義者となって、帰国後に共産党本部へ直行したひとたちもいた。・・・
 アカを敵視する風潮が広がるなかで、抑留者たちは『シベリア帰り』というだけで
白い目で見られた。故郷に戻った後も、警察の尾行や監視を受けた人がすくなく
ない。」
 戦争に従軍、捕虜、抑留、復員してパージにあい、仕事につけないというのは
ふんだりけったりの話しであります。