最近の新聞から3

 「小公子」若松賤子訳の岩波文庫には、若松賤子さんのご主人である厳本善治さんに
よる後序があります。
 26歳で厳本善治さんと結婚するのですが、厳本さんのあとがきには、結婚した時には
すでに「肺を患ひ、少しく喀血などしましたから」とありますので、当時の死病といわ
れた肺結核であると知ってのうえでの結婚生活でありました。
 「小公子」を翻訳していたころのことについては、次のようにあります。
「其頃は病気も重り、年中夜具を敷づめで、大祭祝日の外は、床上げも致しません
から、子供等はソレを常の事に思って居ました。然し、筆を執る時は、起き上つて机に
向ひ、スラスラと楽に書き了り、女学雑誌の一回分四五頁位は、只訳もなく書く様でした・・
 元来、英語は英語は幼年より習ひ覚えて、極雑作もない様で、寝言でも申す時は、
いつも英語でしたから、寧ろ外国のことには慣れていたでせうが、然し一度でも洋服と
言ふものを着ず、日本婦人の忍耐献身に太たく感服し、又和漢の学語に簡潔な所の
あるを時々讃嘆して居ました。私は別段助力もしませんでしたが、『小公子』といふ
題名を撰みました時に、成程漢語は便利ですと笑っていました。」
 今にいたっても「小公子」というタイトルが使われているのですが、これは明治23年
頃、訳ができたものです。
明治29年2月5日、私が管理せる明治女学校が一夜類焼灰燼となった時、俄に病革ま
り、同10日遂に亡なりました。遺言して、葬式は公にせず、伝記は書かず、墓には只だ
『賤子』と銘してくれ、人若し問はば、一生基督の恩寵を感謝した婦人とのみ申して
くれと言ひました。夫故、私が当人のことを公に書くは之が始めてです。
 逝去のとき、五歳、四歳、二歳の三児あり。同窓の旧友大橋新太郎君太はだ同情して、
『小公子』全篇を刊行し、子供等に贈られ、爾来幾十年、此子供と、今は其又子供たる
孫等が、母祖母の餘澤を蒙っております。今回親友岩波君が、その岩波文庫中に『小公
子』を納れてくださるので、公には初めてここに亡妻の小伝を記します。」
 岩波文庫に入ったのは、昭和2年のことですから、若松賤子さんが亡くなって30年も
たっていました。厳本善治さんがあとがきをかいた時には、孫さんも生まれていたよう
です。バイオリニストの厳本真理さんは、このお二人の孫のお一人となりますが、この
時には、すでに生まれていたのでしょうかね。