疎開小説10

 山中恒さんの「ボクラ少国民」第4部には「疎開は勝つため国のため」という章が
あります。いまでは死語になっていますが、戦時中には「少国民」という言葉がありま
した。

少国民(しょうこくみん)は、太平洋戦争(1941年 – 1945年)体制下の日本に
おいて、銃後に位置する子どもたちを指した語である。これは、ドイツのヒトラー
ユーゲントで用いられた『Jungvolk』の訳語である[要出典]。」
  フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より。

 朝日新聞社からは「週刊少国民」という刊行物がでていて、これには比較的疎開関係の
記事が多く、読み物にも「学童疎開物語=哲夫君と松男君」(坪田譲治)」とか「母の
てまり唄=疎開の人たちのために」(柳田国男)といったものが掲載されていたとのこと
です。
 小学館の学習雑誌は「少国民の友」という名前になっていたということですし、新潮社
からは「日本少国民文庫」が刊行されていました。
いまは岩波文庫にはいっている吉野源三郎さんの「君たちはどう生きるか」は、もともと
「日本少国民文庫」のために書かれたものです。(吉野さんは岩波書店に入る前は、
新潮社で少国民文庫の編集主任をつとめていました。)この少国民文庫は山本有三
肝いりで企画されたと思います。山本有三は、この文庫の一冊目として「心に太陽を
持て」を出しています。こちらの本は、最近まで新潮社で刊行されていたように思います。

 疎開の記録を丹念に読んでいる山中恒さんは、学童疎開(集団)について、次のように
書いています。
疎開学寮はまさに軍隊の内務班の様相を示し、食い物を得るためのかっぱらいは横行
し、男女を問わず年長者や強者による退屈しのぎのリンチが横行した。しかも彼らは
巧みに教師の目には遊びたわむれているように偽装した。もちろん、すべての学寮が
そうだったわけではない。食料事情が極端に悪く、えこひいきをする寮母の多いところ
や、やたら暴力をふるうところも多かった。もっとも、こどもたちの欲求不満からくる
異常な心理状態と、周囲のおとなたちの心身ともの疲労からくる不安定な心理状態の競合
がそうしたトラブルをうませた。・・・そこでは、もはや、おとなの童心主義など
まったく通用しない凄惨な場面が演じられた。にもかかわらず、おとなはその現実を
みようともせず、童心主義でうたいあげた。」
 山中さんは、これに続いて林芙美子さんの「疎開児童の夢」という詩を引用しています。
「 雪にうもれている村
  夜更けになると満月が来る
  満月はだまって雨戸をてらしている
  疎開のこどもたちもよくねむって
  いる
  
  きれいな雪の夜空に
  子供たちの夢が
  色紙のように舞いあがっている
  すこやかな子供たちの日常が
  満月の光にすっぽりとつつまれて
  いる
  お父さまお母さま
  ご安心下さい
      (週刊少国民 昭和20年3月11日号) 」