疎開小説5

 「疎開」ということは小学生が戦火を逃れて田舎へ移住することだと思って
いましたが、もともとは軍事用語であるということを、この度初めて知りました。
子どもたちが疎開することは、正しくは学童疎開というのだそうです。
 本日の朝のNHKラジオで柏倉康夫さんが、ご自身が体験した学童疎開の話をして
いました。柏倉さんは昭和14(1939)年のお生まれですから、学童疎開の時には
当時の国民学校1年生で、疎開の該当にはならなかったのだそうですが、6年生の
兄がいたことと、祖母が同行することを条件に疎開することが認められたといって
いました。学童疎開に参加することが出来なかった子どもたちも、いたはずであり
ますが、これはほとんど置いてきぼり状態といえるでしょう。
 学童疎開の体験を残している人は、国民学校の5、6年生であることが多いの
かもしれません。学童疎開が昭和19(1944)年8月に始まったのですが、この時に
6年生となっていたのは小林信彦さん昭和7(1932)年で、柏原兵三さん昭和8
(1933)年で5年生、集団疎開の体験をもとに小説「谷間の底から」を書いた
柴田道子さんも柏原さんと同学年でありました。

 以下は柴田道子さんの著書「ひとすじの光」(朝日新聞社 1976年)巻末の
略年譜からの引用です。 
 昭和9(1934)年3月 東京・大森馬込に生まれる。
 昭和19年(1944)4月 国民学校5年。この夏学童疎開始まり、馬込第三国民
            学校は伊豆方面へ疎開するが、病弱のためこれには
            参加せず東京に留まる。
 昭和20(1945)年4月 国民学校6年。馬込第三国民学校の再疎開先へ参加
            する。場所は富山県西礪波郡津沢町(現小矢部市)の
             光西寺。

 柴田道子さんの「戦争が生んだ子どもたち」には、次のようにあります。
「 私の少女期のふるさとが、戦争体験であり、それは一年四ヶ月の学童集団疎開
に象徴されていると申しても過言ではないと思う。・・・
 みんな『太郎は父のふるさとへ、花子は母のふるさとへ』の歌に送られて疎開した。
私たちは、小さい魂に鞭打って、勝つまではがんばりますとでかけた。皇后さまが
『次の世を背おふべき身ぞ、たくましく、正しくのびよ、里に移りて』という歌を、
疎開学童に贈られ、私たちは、お国のためになるのだと信じ、さながら兵隊さんの
出陣きどりで、集団疎開に参加したのだった。昭和十九年の八月、その時私は
五年生だった。第一次集団疎開には三年生以上、翌年四月には、東京の学校が戦災
で閉鎖されたため、一年生から疎開して来た。・・・
 学童集団疎開は、いろいろな意味で教育史上、昭和の児童受難史だ。当時五年生、
どうやら自己にめざめ、考える力が出てきた私は、疎開時代の後半は最上級生と
して指導者の側にあった。そこで私は様々なことを学んだ。喜びもあり、悲しみも
あり、みにくいこともあった。一緒に疎開した友でも、そのほとんどの人々が、
あの頃は思い出すのも暗くていやだと言う。
 まだほんの子どもだった。低学年の生徒にしてみれば、生活の貧困と、父母から
はなれた孤独の中で象徴される集団疎開は、彼らの思い出の中で死んでしまっている
のである。」