疎開小説4

 作家 柏原兵三さんの年譜を見ていましたら、生年から疎開にいたる足取りは次の
ようにありました。
 昭和8年11月 千葉市に生まれる。父 兵太郎は鉄道省官吏で、当時ロンドンに留学中
 昭和15年4月 渋谷区千駄谷小学校入学
 昭和19年4月 縁故疎開のため、父の郷里、富山県下新川郡入善町上原小学校へ転校。
        昭和20年8月終戦となり帰京。この時の経験が「長い道」となる。
 昭和27年3月 都立日比谷高校卒業
     12月 父 兵太郎死亡
 昭和28年4月 千葉大学医学部入学。後に退学。
 昭和29年4月 東京大学教養学部(文科2類)入学。 

 父上の兵太郎さんは、高級官僚で最後は局長職を努めることになるのですが、「ああ
玉杯に花うけて」を地で行くような生き方であったようです。
 柏原兵三さんの「父の回想」には、次のようにあります。
「 父は明治29年富山県の半農半漁の一寒村の農家の長男として生まれた。村の小学校
の尋常科を終えると、町の小学校の高等科を卒業し、町の駅に駅夫として勤めた。しかし
明治時代の青年の一人として、向学心と、広い世の中に出たいという冒険心に止みがたい
ものがあったらしく、突然故郷を出奔して東京にでた。そして苦学をしながら、専検に
合格して、金沢の第四高等学校を経て、東京帝国大学の法学部に進み、在学中高文にパス
し、卒業後鉄道省に入った。」
「彼は救いがたくワンマンで、自己中心的で、非日常的で、横暴で、専制的であったと
思えるが、同時にまたこれほど強く、頑固で抵抗のしがいのあった男もいなかったのでは
ないかと思え、ひどく頼もしく感じられることがある。彼は私が大学受験浪人中に、公職
追放が解け政界に進出するために立候補の準備をしている最中に、わずか五十六歳で急逝
してしまったから、私が彼のことをどのくらい正確に理解しているかは分からないが、
すくなくともそんな風に感じられる。
 私の父は早世したこともあって、取り立ててあげるほどのことをしたわけではないが、
きわめてユニークな個性を有し、一個の人間存在として彼と接した多くの人々の心に
忘れがたい思い出を残しているのはたしからしい。」 

 柏原さんの父上は、小さな町にとっては伝説的な存在でありまして、そのような人の
子息が疎開してくるということは、その町の人々にとっては浮き足立つようなもので
ありましたでしょう。それが同級生として迎える子どもたちにとっても影響を及ぼしたと
思われます。普通の縁故疎開であっても、都会からの子どもと田舎の子どもの生活してる
世界が違うというのに、ますます色眼鏡が濃くなってしまいます。
 柏原さんが「長い道」を書くにあたって、かっての入善町の同級生たちに了解を求めた
とあります。
「 数年前父の故郷に行った私を囲んで、昔の同級生たちが同級会を開いてくれたことが
ある。私は昔の同級生たちにはほとんど二十数年ぶりに再会したのだが、彼らの名前、
仇名、いろいろなエピソードをほとんど完全に覚えていたので、みんなはまったく意外
だったらしい。その時私は『長い道』という小説を構想していたので、もしかしたら
モデルになってもらうことがあるかも知れないけれどもいいだろうか、といった。
すると同級生たちは、『子供の時のことだから何を描いてもいい』という意味のことを
述べ、寛大な了解を与えてくれたのである。」
「長い道」は、学生であった昭和34(1959)年同人誌に発表され、昭和41(1966)年
まで断続的に連載されて、昭和44(1969)年に講談社から単行本となりました。
「『長い道』という小説は完成し、昔の同級生は争って読んでくれ、その感想を私は
いろいろな形で伝え聞くことができた。その感想に共通していたことは、物語の主人公で
ある疎開児童の現実を自分たちは想像もしていなかったが、この作品で自分はそういう
現実がかってあったことに目ざめたというのであった。」(昭和46年2月 )
 これを発表してから、1年後の昭和47(1972)年2月に、柏原さんは脳溢血の
ために、わずか38歳の人生を終えることになります。