岩波「図書」8月号

 本日帰宅しましたら、岩波「図書」と「ちくま」が届いていました。
いつもの月よりもすこし早くに到着でしょうか。さて、このなかから、なにか材料をと
思っていましたら、つぎのような文章が目に入りました。
「 科学を専攻しても音楽学を専攻しても、生活が安定することもないので、自分の
道をお進みなさい。そして自分で選んだ道ならば貧しくても我慢できるでしょう。と
いうのが先生の忠告であった。この言葉に励まされて、美学科で音楽学を学ぼうと
決めた。」
 化学と音楽が好きな高校生が、どちらの道に進むか迷って高校生むけの化学の塾を
開いている大学の先生に相談した時の、その先生のアドバイスであります。
化学の先生は津田栄さんといい、当時高校生であったのは、徳丸吉彦さんという音楽
学者さんです。
 徳丸さんは、この文章で音楽と化学分野をつなぐ人の関わりについて記しています。
「作曲家で音楽学者の柴田南雄氏は、化学の領域で数々の先駆的な業績をあげられた
柴田雄次先生の一人息子である。・・・柴田雄次先生は、南雄氏が植物学から音楽に
転向したことを残念とも思わず、極めて自然に受け止めていた。化学と芸術を違わ
ないとみなす態度において、ユルパンと柴田雄次は共通していたと思える。」
( ユルパンとは化学者であるとともに、音楽についての著作や作曲もしている学者) 

 ここからが、本日の本題となります。
「 1987年の一学期、私はカリフォルニア大学ロサンゼルス校で音楽学を教えていた。
ある晩、カリフォルニア工科大学のホールで、モンゴルの音楽家が演奏会を開いた
ので、同僚につれられていってみた。・・(そこで)UCLAの同僚から紹介されたの
が、ファインマンさんだった。彼はホーミーに特別の関心をもっていて、今すぐに
原理を説明してほしいといったが、演奏会場でもあったので、モンゴルの専門家が
帰ってからにしようとなった。・・彼とはその後も電話で話をし、こちらから
ホーミーの文献を送ったりしたが、私の帰国直前であったため、彼の依頼にきちんと
応えることができなかったのが残念であった。・・・
ファインマンさんの最後の冒険』を後で読んでみて、中央アジアに位置し、現在は
ロシア連邦に属するトゥーバに彼が深い関心をもっていたことを知り、またホーミー
研究のために、すでに私の知人のニューヨークの民族音楽学者に連絡をとっていたこと
を知った。」

トゥバ紀行 (岩波文庫)

トゥバ紀行 (岩波文庫)

 ここにあるトゥーバというのは、岩波文庫にはいっている「トゥバ紀行」のトゥバの
ことでありますね。岩波文庫のカバーには、次のようにあります。
「モンゴルと南シベリアの間に位置し1921年から23年間だけ独立国であったトゥバ。
1929年、独立国時代のトゥバにはいることのできた唯一の外国人で、民族学・考古
学者であったメンヒェン=ヘルフェンが鋭い観察眼をもってトゥバ文化の多面性や
当時の政治状況を生き生きと伝えてくれる貴重な旅行記。」
 この本の翻訳は、田中克彦さんでありまして、このような奇書が当方の目にとまる
のも、この方のおかげであります。
 この本のあとがきには、ちゃんと「ファインマンさんの最後の冒険」のことがでて
くるのでありました。
「 1984年には鴨川和子さんという日本人がトゥバでフィールドワークを行ったと
いうことも、90年に刊行された『トゥワー民族』によって知った。同時にこうした
調査・研究が、さきほど述べたような、日本に東洋史研究の関心や成果とはまったく
断絶されたところでなされていることもよくわかった。
 しかしこのようなチャンスができてきた一方で、トゥバに入ることがまだまだ難事業
であること、それにもかかわらず達成できないことではないことを教えたのは、
ラルフ・レイトン『ファインマンさん最後の冒険』だった。この書が、題名からは直接
うかがうことのできないトゥバ旅行への苦心談を綴ったものであることを教えてくれた
のは、信濃毎日新聞の書評欄にのった岡部昭彦氏の紹介記事だった。
 この本によるとファインマンさんたりは、トゥバに入るビザを手に入れるのに10年
もかかった。・・・
 1993年、私はブリヤートからサヤン山脈をこえて、異常な興奮をおさえながら、
はじめてトゥバの土の上に降り立ったのである。」
 この文庫を読んだときに、もちろんこのあとがきも読んでいるのですが、この
「最後の冒険」という本については、まったく記憶に残っておりませんでした。
ファインマンさん最後の冒険 (岩波現代文庫)

ファインマンさん最後の冒険 (岩波現代文庫)