本作りの苦労5

 出版を業としてやっていくときに、一番たいへんなのは資金繰りでありまして、
仮に本が売れたとしても取り次ぎを通したら、代金がはいってくるまでには時間が
かかり、その期間をしのぐのに四苦八苦するというのは、良く聞く話です。
(雑誌「リテレール」を創刊した安原顕さんは、「リテレール」のコラムに毎号の
ように取り次ぎへの不満を書いていました。取り次ぎに口座をもてるようになるだけ
でも大変であるようですが、版元からは悪くいわれる取り次ぎでさえも、この出版
不況では経営がうまくならないのでありました。)
 再販制の見直しの動きもでていますが、こうしたことは編集ではなくて、経営の
実務に強い人が出版社トップになっているからでしょうか。
 出版社の社長で有名な方は、ほとんどが編集者でありますが、かっての筑摩書房
古田さんは、出版社をおこしたいと強く願って会社をつくるのですが、その企画は
学生時代からの盟友である臼井吉見ほかにまかせ、ひたすら金の心配をしていたと
あります。(みすず書房の社長となっていた北野民夫さんとかは、どのくらい会社に
かかわっていたのでしょうね。)
「 ここ数年、年に一度はかならずベストセラーを出し、また、毎月、十点ぐらいの
出版物を出しながら、交通費やアルバイトの支払にも事欠くとは、考えようもないこと
だが、これは筑摩書房が高い金利のついた資金で運営されていたためである。
 古田が、付けで呑むようになったのは、本郷台町時代からであった。これは飲屋や
バーに慣れて、顔がきくようになったせいであるが、手持ち資金が底をついたことをも
意味していた。
 当時、出版業は銀行で丙種にランクされていた。融資などは思いもよらず、製品を
取次店におさめて受け取った手形も、大部分は闇金融業者から割り引いてもらうより
仕方なかった。働くことは返品をふやすことでもあり、そのうえ、もらった手形は
高利貸に吸い取られるというのが、当時の多くの出版社の実情であった。そのあげく、
また高利貸から借金するというような苦境に落ち込んだりした。筑摩書房も、この
ような滅びの道を歩んでいた。」(「筑摩書房の三十年」から昭和27年当時のこと)