書肆季節社の本6

 千鳥足のように本日は今井田勲さんの「編集中記」からであります。
今井田さんが編集長をつとめていた「ミセス」に連載の文章をまとめたもので
ありますが、このなかに「ソヴィエトの文選工」と題されたものがありました。

「現代の産業は複雑多岐になってきたので、分業が進んできた。・・・私たちの
雑誌の世界も同じようなことがいえる。雑誌が編集会議に始まり、書店に
出るに至るまでには、これまた多くの職種の人の手を経ている。読者のかたには
わからない職種もいくつかある。単行本は、ほとんど編集者一人の手になるけれど、
雑誌はいわば総合芸術みないなものだから、一人だけの意思ではどうにもならない。
・・私も長い間雑誌の編集をやってきたが、自分の意思どおりの雑誌がつくれた
ことは一回もなかった。・・雑誌では、編集という作業だけは自力でできるが、
肝腎の印刷、製本となると、どうしても他人の力を借りなければならない。・・
本の雑誌は、分業化という宿命を先天的に負わされているのだ。」

 編集長としての今井田さんは、雑誌は分業によるものであるので、一人だけの
意思ではどうにもならないとさとっていますので、一緒に雑誌作りするスタッフの
負担軽減を考えるとともに、縁の下の力持ちをたたえることを欠かさずです。
「編み物はできなくとも編み物の本の出版はできるし、洋裁技術はわからないでも、
製図をトレースすることはできる。分業化の極致であるように思う。・・
わが文化出版局の刊行物の洋裁技術が無類に正確で親切でああると読者の皆さん
から定評をいただいている陰には、このような縁の下の力持ちがいるのである。」
 このようにあるのを見ると、ほとんど一人で作業を行う単行本の編集者と、
分業化された雑誌編集者では、仕事にむかうスタンスが違うように思えます。

 この文章のタイトルは「ソヴィエトの文選工」でありますが、これは63年頃に
今井田さんが一人でモスクワへといったときの話であります。そのころの政府が
発行する「ソビエト婦人」編集部に勤務する帰化した日本人女性と、この雑誌の
日本語版はどのようにつくられるかという聞き取りになります。
「 私は日本語に訳した原稿を誰がどのようにして日本の活字に組あげるのかに
 興味があった。
 『日本の活字はあるんですか。』
 『ありますよ、戦前の古い活字ですがね。。むかしウラジオストクあたりには
  日本人がいたので、日本の活字の需要もあったのでしょうね。それを今こちらに
  持ってきて使っています。』
 『文選は日本人でなければできないでしょう。』
 『ところがみんなソヴィエト人なんですよ。』
 『日本語できるんですか。』
 『いいえ、ひとこともしゃべれません。』
 『それでよく活字が拾えますね。』
 「それがどんなに正確に書いても日本人の書いた原稿では活字が拾えないんです。
 日本人とは運筆や筆順などが違うのです。ですから、私が楷書で書いた原稿を
 少し日本語がわかるソヴィエト人が書き直して、それを文選工に渡すのです。』
 トレーサーは製図の意味がわからなくともトレースができ、ソヴィエトの文選工は
 日本語がわからなくとも日本の活字が拾える。」 

 日本語がわからなくても日本の活字が拾えるというのはすごいことであります。
アルファベットととはおぼえる数の多さが違いますからね。