図書館から借りている「明朝体活字」をパラパラと開いていましたら、
イギリス人とかフランス人が中国にむけての布教のために明朝体活字を作る
話がずっと続いています。最初にフランスでできたのは9世紀とありますが、
活発化するのは日本でいえば江戸時代後期のようです。
こうして中国むけに開発された活字はまわりまわって日本にも入ってくる
ことになるのですが、江戸時代のことですから、これはオランダ経由のこと
となり、それに尽力したのはシーボルトの助手さんであったホフマンさんとの
ことです。
ということで、日本にむけての活字はオランダで作られ、ホフマンさんは
活字の見本帳を1860年には刊行しているとのことです。この活字の見本帳を
作るということだけでも相当な労力を必要とすることです。
「オランダ人の文選植字工が原稿に合わせて活字を採字し、組版するとき
大きな障壁を超えなければなりません。あたりまえですが一握りの学者を
除けば漢字を読めるオランダ人はいません。漢字の読めないオランダ人文選
植字工が、間違いなく当該漢字を拾い上下の転倒を避けるためにはどうした
らいいのかという問題を解決するために、ホフマンをはじめヨーロッパの
東洋学者や日本学者は知恵を絞ったはずです。」
漢字なんてものを見たことのない人たちが、デザインして、それを活字に
していくのですから、漢字を見慣れている人にすれば、ちょっと違和感あり
となることです。
当方がモンゴル語の文字をなぞったりすると、現地の人にはほとんど判読
不能となるのでしょうね。
そんな見慣れない文字ということを思っていましたら、その昔の西夏語の
本を出版するのに、その文字を揃えて印刷した出版社のことを思いだしました
です。