函館つながり

 大阪文学学校でチューターをつとめていた川崎彰彦さんは、大学を卒業してから
就職した北海道新聞函館支社に勤務していて、「私の函館地図」という作品を残して
います。この作品は、時系列としては「ぼくの早稲田時代」に続く物ものでありま
すが、発表されたのは、こちらのほうがずっと古いのであります。小生の手元に
ありますのは、75年11月に高村三郎さんが孔版印刷で200部限定で刊行した
ものであります。川崎さんが函館にいたのは1958年から67年で、このとき
会社を退職して大阪にでたのですが、そこで書き留めた函館時代の文章を、高村さん
が、まとめて「私の函館地図」は、いまに残っています。
この高村三郎さんが制作した「「境涯準備社」版の「私の函館地図」のあとがき
には、次のようにあります。( 「たいまつ社」からでたものにも、そのまま収録
されているはずですが、今は確認できず。)
「 『私の函館地図』を本にしようか、と年少の友・高村三郎さんがいってくれた。
 私は二十代から三十代にかけての十年、函館に住んだ。大阪に来て、北海道の
雑誌に函館の思い出を書く機会が多かった。函館弁コと似た言語圏の東北に育った
三郎さんの申し出により、それらのちいさな文章どもを集めてみる気になった。
 『私の函館地図』とは、いうまでもなく佐多稲子さんの『私の東京地図』から
思いついた題名だが、それを読んだのはだいぶ昔のことで、内容や組み立て方は
忘れてしまった。ただ、いいものだったという感触は残っている。
 三郎さんが骨折り損をしないよう、このささやかな本が盛大に売れてくれることを
せつにねがう。」
 盛大に売れたとしても800円の200部でありますからして、骨折りを厭って
いたら、このような作業はできないことであります。
 川崎さんは、記者よりも労働運動のほうを一生懸命にやっていたようでありますが、
会社でのことについているなかに、以下の記述がありました。
「 65年だったかに道新(北海道新聞のこと)の本社学芸部から乳井洋一高城高
が転勤してきた。ほぼ同年輩であり、組合大会なんかで顔を合わせても気が合う仲
だったから、うれしかった。函館にきてからは、ほとんど小説を書かなかったよう
だが、釧路の自然を舞台にした彼のデビュー当時の『淋しい草原に』『暗い蛇行』
などはいまでも印象鮮やかだ。日本の推理作家のなかで一番文体がいいんじゃないかと
思っていたのに、最近書かないのは惜しい。」
 最近、高城高さんの作品は、文庫全集で読む事ができるようになりましたが、この
文庫でプロフィールをみて、新聞記者が本業としったのですが、いぜん、この川崎さん
の文章をみているはずですが、高城さんが北海道新聞の著名な記者であるとは知らな
かった。