菖蒲忌 野呂邦暢5

 いまから30年ほど前には、地方で小説を書き続けるというのは、相当に
たいへんであったようです。すこしでも見込みがありましたら、東京にでてきて
筆一本でやってみないかというようなお誘いがあるのでしょう。諫早に住んで
小説を書き続けた野呂邦暢さんも、その活動を支えた編集者も、どちらもえらい
ことであります。
 小生が野呂作品にひかれるのは、このように自分のふるさとにこだわっている
ことによるもののようです。以前に拙ブログでは「諫早つながり」ということで、
市川森一さん(シナリオ作家)の作品にでてくる登場人物が、野呂邦暢の小説を
手にして「有明海の自然保護」について語るということを記したことがありました。
野呂さんの孤独な戦いは、いまは評価につながっているのですが、芥川賞を受ける
までは孤独そのものでしょうし、諫早では共に研鑽をつむお仲間を見いだす事が
困難であったでしょう。
 中野章子さんの「彷徨と回帰」には、次のようにありでうs。
諫早の町には野呂の文学上の友はいなかったから、話相手を遠くの友人たちに
求めたのだろう。
 長谷川修は野呂より十一歳年上の作家で、下関に住んでいた。この書簡集には、
諫早と下関に住む二人の作家が66年から78年まで、およそ12年間にわたって
交わした手紙が収められている。百五十通余の手紙には日常生活の感想や身辺報告
などはほとんど見られず、ただ『文学』のみが語られており、いかに作家どうしの
手紙とはいえ、これほど徹底して文学議論だけの手紙というのは珍しいのでは
ないだろうか。・・・
 長谷川は当時40歳、水産大学の講師をつとめるかたわら文芸誌に作品を発表
しており、すでに二度、芥川賞候補にあげられ、新進作家として注目さrふぇていた。
 一方二十九歳の野呂は、文学賞新人賞に佳作入選して作家としてのスタート
ラインについたばかりであった。同人誌に属さず、たった一人で書く終業を積んで
きた野呂は、ようやく実作社としての立場から理解しあえる友を得たのだった。」
 野呂邦暢とくらべると、長谷川修さんのほうがずっと名前をきくことがなくなって
しまいました。小生は、そのむかしに何冊かの小説を購入しておりますが、人文書院
からでている「舞踏会の手帖」なんて作品集は、けっこうよろしいと思うので
ありますが、先日の佐藤正午さんの話ではありませんが、いま時、長谷川修さんお
小説などを読もうというひとはいるのでしょうか。