いまどき長谷川修さんの小説を読んでいる人はいるのだろうか。佐藤正午さんの
エッセイの野呂邦暢さんの作品をぼちぼち読み返しているのは、世界中でぼくひとり
ではというくだりを借りますと、最近に長谷川修さんの小説を話題にしている人は
世界中でここだけとなるかもしれません。
とはいっても、日本の古本屋で検索をしましたら、長谷川修さんの作品は、数多く
販売されていますので、作品を手にしようとしましたらそんなに難しくはなく、
どこかで興味をもってくれる人がいることを期待しています。そんな当方も、
作品集はいくつも持ってはいないのでありますが。
長谷川修さんの作品集「舞踏会の手帖」75年10月刊行でありますから、いまから
35年も前の本になります。この本のあとがきには、次のようにあります。
「牧野信一の作品を読んだのは、あとにもさきにもその一作きりなのである。
ワイルドの『サロメ』をはじめ、ただ一作しか読んでいない作家がまだほかに数人
いるが、結局そういう作家から、最も強い影響を受けるのである。すると、作家の
作品は一作で充分だ、ということになろうか。尤もそんなことを言うと、私の作品も
一作以外には読んで貰えないことになるから、これは聞かなかったことにしてほしい。」
最近では長谷川修さんは、野呂邦暢さんの書簡集の相手として知られていて、なか
なか作品が話題になることはないようですが、もうすこし読まれていいのかも
しれません。
「舞踏会の手帖」という作品の書き出しは、次のようになっています。
「四十にして惑わず、五十にして天命を知る、という。
私の父は、四十五歳で死んだ。私の家系では、どういうものか、男はあまり長生き
しない。過去帳で調べてみると、曾祖父は五十一歳、祖父は六十四歳で死んでいる。
いずれも数え年だが、還暦以上に生きたのは、ともかく祖父だけである。・・・
もはや自分がかって肺病であったことなど忘れているくらいになっていた。
それでも内心では、四十歳まではいきないだろう、かりに四十歳まで生きるに
しても、父の死んだ四十五歳まではとても無理で、せいぜい生き延びるとしても、
まずその年齢が限度だと思っていたのである。しかし私は四十歳をこし、それから
四十五歳も過ぎて、現在ではもう父の寿命を上回ってしましった。」
長谷川修さんがなくなったのは79年ですから、その時52歳くらいでしょうか。
やはりあまり長生きとはいえません。