菖蒲忌 野呂邦暢6

 邪馬台国論争というのがあって、古代史というのは現存の資料がすくないせいも
あって、ほとんど推理小説のような趣でありまして、数少ないてがかりを想像力で
最大限まで膨らますもののようです。
 小生の生まれ育ったところが、ほとんど昔の歴史が残っていないことなども影響
してか日本史とか歴史というのを、あまり身近に感じることができませんでした。
せいぜい歴史というと近代史のことであります。
 中野章子さんが書く野呂邦暢さんについての文章には、次のようにありです。
野呂邦暢の晩年の仕事で大きな部分を占めていたのが古代史である。もともと歴史が
好きで世界史や日本史に関する書物をかなり読破していたようだが、中でも古代史への
関心は格別深かった。・・・ 
 野呂が古代史に興味をもったのは、67年に出版された宮崎康平著『まぼろし
邪馬台国』を読んでからというが、もともとミステリー好きの野呂にとって、謎解き
の要素の強い古代史論争に惹かれるのは自明のことであった。また身近に良き先達も
いた。長谷川修と太宰府在住の推理小説作家で古代史にも詳しい石沢英太郎である。」
 野呂邦暢さんの「古い革張椅子」には、作家 長谷川修さんの古代史の知識にふれて
いるところがあります。
「作家長谷川修氏は下関の水産大で数学を教えてもいる。氏とはじめてあったのは昭和
40年の暮であった。・・
 その後、氏と文通するようになり、氏が古代史についてなみなみならぬ造詣のある
ことを知って私は驚いた。作家でもあり数学者でもあることすら一風かわっている
のに、古代史にまで専門家はだしの知識を有している人は珍しい。・・
 長崎市で再会した折は話が卑弥呼からプランクの常数にとび、倭人伝の方位論から
熱力学の第二法則に変わり、ハイゼンベルグ不確定性原理っを解説してもらっている
つもりでいると、話はいつのまにかヤマトタケルの遠征譚に移っていつよいう具合で、
私は時がたつのを忘れて長谷川修氏の驚くべき博識と才智に耳をそばだてることしか
できなかった。書物だけの情報というのは限度がある。」
 長谷川修さんは、野呂邦暢さんよりも十歳ほど年長でありますが、野呂さんがなく
なるちょうど一年前となる79年5月1日で胃がんのためになくなっているのでした。