文学学校 2

 「文学学校」というのが、今も健在なのがうれしくなることです。当方は、ほとんど
読むだけの人で、創作をする側にはいないのでありますが、新しい書き手がでてこなく
ては、世界はつまらなくなってしまいますので、そうした新しい書き手がでる仕掛け
には注目をしているのです。最近のサッカーチームでは、ジュニアから選手の育成を
行っていますが、たぶんプロのもの書きの世界にあっても、求められる仕組みは同じで
ありましょう。
 文学賞を受けたりする作家たちは、必ずどこかで修行をしているはずでありまして、
そのような訓練を受けずにデビューすることは、きわめてまれなことなのでしょう。
たしか、丸山健二さんが、そのようなまれな一人であるといわれていました。
 文学学校というのは、次の時代の担い手を育てるというような趣がありますが、
全身小説家でありました「井上光晴」が作ったのは「文学伝習所」というものであり
まして、ここでは技術を教えるのではなく、志を伝えるというようなのが趣旨となって
おりました。
 文学学校の全盛期というのは、いつころかわかりませんが、大阪文学学校を拠り所と
する同人誌「新文学」(のちの「樹林」)は、70年代に会員が千人余を擁したと
ありました。大阪の場合ですと、本科と研究科にわかれて、それがさらにいくつかの
コースにわかれていたようであります。
 昨日にも記しましたが、作家の川崎彰彦さんは、70年頃から文学学校にかかわる
ようになり、この会の文芸誌の編集などもつとめていました。
「新文学」という雑誌の編集後記は、のちに「もぐらの鼻歌」としてまとめられて
おります。本日は、この冊子からの引用です。
大阪文学学校(一時期は姉妹校として京都文学学校もあった。)に根を置く文学運動
体の月刊誌『新文学』は1963年8月創刊、初代編集人は大阪文学学校の事務局長
でもあった松岡昭宏である。69年から私が編集実務を肩代わり、70年9月号から、
これらの編集後記を書いた。私の書かない号は同じ編集委員の村田拓や高村三郎が
書いた。
『新文学』は後年『文学学校』と改題、さらに『樹林』と名をあらためて、85年
12月現在、通巻247号におよんでいる。」(「もぐらの鼻歌」あとがきより)