ヤスケンの海 2 

 本日も、村松友視さんが編集者「安原顕」について描いた作品から話題を
いただきです。
 出版社(または出版業界)というのは、名前はよく知られていますが、
会社の規模からいいますと、ほとんどが小企業から零細という分類であり
ましょう。進歩的な出版物をだしているけど、会社は天皇制のようになって
いて、家族支配が徹底しているなんてところが珍しくなかったのでしょう。
創業者の家系で社長を順送りしているというのは企業であるよりも、個人商店
のようであるかもしれません。
 中央公論社を去った嶋中家が、そのあと嶋中書店というのを立ち上げたのは、
象徴的なことであります。不景気になって成績があがらないとか、会社の
求心力を増すためにとかいって、創業家から社長をというのは、日本を代表する
企業でも、最近話題となったところですが、気持ちはわかるけどねといいたい
気分です。
 このように、気持ちはわかるがというのはサラリーマン的でありまして、
こうした社風は断じて許さないというのがスーパー編集者であります。
同じように会社に適応しない社員であった村松友視さんは、自分が嶋中家の
創業者と付き合いのあった作家の孫であるということで、会社に採用されて
いると自覚していますので、必要以上の抵抗はしないのですが、ヤスケン
遠慮なしです。
 この本のハイライトは、大江健三郎事件とされているものでありますが、
ヤスケンレコード芸術にもっていたコラムで、大江健三郎小田実のことを
けちょんけちょんに書いて、それを読んだ大江健三郎から、中央公論社の出版
には、今後寄稿しないし、谷崎潤一郎の選考委員もおりると抗議をうけたことを
いいます。
 このコラムは、この「ヤスケンの海」には全文引用されていますが、ヤスケン
レコード芸術のコラムをまとめた「まだ死ねずにいる文学のために」には収録
されていないように思います。この抗議は74年10月のことですが、その
時代には、大江健三郎さんは、すでに大家の一人になっていましたので、どこの
馬の骨かわからない編集者に書かれて切れたのでありましょう。
 ヤスケンの名誉のためにいいますと、その数年前のレコード芸術のコラムには、
「洪水はわが魂に及び」に関して次のようにも書いているのでした。
「 ぼくは大江氏とはほぼ同世代の人間だから学生時代には氏の書いたものは
それこそ小さなコラムに至るまでいつも胸をわくわくさせながら必ず読んでいた
けれど、たしか昭和42年にでた『万延元年のフットボール』のあまりのつまら
なさに辟易として途中で放りだして以来、一応新刊がでると買うことは買うんだ
けれど、まったく読まなくなってしまったのね。だけど今度のこの長編は、君に
薦められてイヤイヤよみはじめたんだけど、いやいや驚いたね、細かいところでは
少し気に入らないところもあるけれど、とにかく感動したよ。」
 この時の書きっぷりとくらべると、会社に抗議文がきたという時のコラムは
ヤスケンのほうも、抑制がきいていないという感じです。
当時のヤスケンの直接の上司は、大江健三郎が信頼する塙編集長でありました
ので、彼などのとりなしで、なんとか収まって、その後に谷崎賞の選考委員にも
復帰するのでありますが、抗議したときの大江健三郎の高ぶりを思うと、選考
委員に復帰するなんてありえないと思うのですが、どこの世界にも大人の処し方
というのがあるようです。