旧正月とおらんだ正月3

 あしたは旧正月でありますが、本日の新聞テレビ欄を見ましても大晦日を感じさせる
ようなものはありませんでした。さて、東アジアのテレビは、どのような番組をやって
いるのでありましょうか。数年前に「おらんだ正月」に短波放送で中国の日本むけの
番組を聴いておりましたら、北京放送の日本語スタッフが、男女にわかれて紅白カラ
オケ大会をやっているのにあたりました。これなどは、日本むけの番組であります
ので、お正月も日本の暦にあわせていたのでしょう。それであれば、本日の東アジアは
どのようなラジオ番組をしているのでしょうね。この時間に聴いていましたら、中国の
日本語放送は日本の曲を中国語でカバーした番組の特集をしています。
 富山房百科文庫の「おらんだ正月」を手にしていますが、これを見ていますと、岩波
文庫では、これがどうとりあつかわれているのかと思ってしまいます。近くにある岩波
文庫をならべているところには、この「おらんだ正月」なんて売れ残っているだろうか。
あっても不思議でないくらい背やけした岩波文庫がならんでいるのだけど、次にいった
ときに調べてみることにしましょう。
 この富山房版は、解題をよせているのが富士川英郎さんであります。富士川さんの
専門はといえばドイツ文学・比較文学とありますが、この解説では、江戸時代の本草
とか蘭学、医学についての実践家たちに記しています。なんともはや、引き出しが多い
ことであります。このかたのお父さんが日本の医学史の草分けといわれるかたであり
ますから、いつのまにかこのようなことが身についたのでありましょうか。
 日本では、正規・正統の教育を受けていない研究者はアカデミズムに受け入れられ
ないという傾向がありまして、そのために内藤湖南牧野富太郎は、研究職につくに
大変な苦労をしたのでありますが、そのことは、森銑三さんの時代においても続いて
おりました。多くの学者さんが、森さんの研究に依拠しているにもかかわらず、その
ことを隠してもいいと考えていたのでしょうね。
 森銑三著作集が刊行されたことにより、一般の読者にも森銑三さんの大きさが
分かってきたのであります。
 富山房百科文庫に寄せた文章で、富士川さんは終始 森先生と呼んで敬している
のがうかがえることです。
「森先生は、この本のなかで、江戸時代の初期から末期に至までの間に活躍した医者や
学者や探検家などのうちから五十二名の人を選んで、その伝記を、面白い逸話を交え
ながら、平易な文章で、誰にでもよく分かるように、語っておられますが、これらの
人たちは、森先生によってこの一冊の本のなかに集められ、それぞれの生きた時代の
差を超越して、みんなで楽しく、賑やかな宴を催しているのだというふうにみられない
こともありません。だが、森先生がこの本に『おらんだ正月』という表題をあえてつけ
られたのは、この本で語られている人たちが、必ずしも蘭学者にだけかぎられていない
のにもかかわらず、いわゆる実学を志した人たちであり、程度の差こそあれ、同じ
ような実証精神持ち主であったからなのでしょう。そしてこれらの人たちが・・
個人としてのその生涯の幸、不幸にかかわらず、そのめざす方向をほぼ一つにし、
江戸時代から明治へとおもむろに移っていった時代の流れを導いたり、それに棹さした
りした人たちであったからなのだと思われます。」