大阪留学の記 5

 岩波文庫「蓼喰う虫」の小説世界(谷崎の文章と小出楢重の挿絵)を楽しんで
いましたら、その勢いで雑誌「サライ」の「文楽特集」と山川静夫さんの「綱太夫
四季」を購入するにいたりました。その時に、一緒に購入した小出楢重随筆集を
購入したのですが、これを手にしても一番最初に目がいくのは、上方文化を話題に
しているところでした。
「大阪で発祥した処の浄るりを東京人が語ると、本当の浄るりとは聞こえない。
さわりの部分はまだいいとして言葉にいたっては全く変なものに化けていることが
多い。浄るりの標準語はなんといっても大阪弁である。
 従って、大阪人は浄るりさえ語らしておけば一番立派な人に見える。
 よほど以前、私は道頓堀で大阪の若い訳者によって演じられた三人吉三をみた
ことがあった。その芸は熱心だったが、せりふの嫌らしさが今に忘れ得ない。
大阪ぼんちが泥棒ごっこをして遊んでいるようだった。みている間は寒気を感じ
続けた。」(「大阪弁雑談」から)
とここまではよろしいのですが、これに続くのは、次のようなくだりです。
「芝居や歌とかいうものは、言葉の違いからかえって地方色が出て、甚だ面白いと
いうものであるが、日本の現代に生まれたわれわれが、日常に使う言葉はあまり
地方色の濃厚な事は昔と違って不便であり、あまり喜ばれないのである。
 標準語が定められ、読本があり、作文がある今日、相当教養あるものが、何かの
あいさつや講演をするのに持って生まれた大阪弁をそのまま出しては、立派な説も
笑いの種となる事が多い。品格もなにもかもを台なしにすることがある。
 そこで、今の新しい大阪人は、全くうっかりとものがいえない時代となっている。
だからなるべく若い大阪人は大阪弁を隠そうと努めているようである。
 全く、気の毒にも、今の若い大阪人は、心と言葉の発音の不調和から、日々不知
不識の間に、どれだけ多くの、いらない気兼ねをしてみたり、かんしゃくを起こし
たり、けんかをしたり、笑われたり、不愉快になったり、しているかしれないと
思う。」

 大阪弁についての文章は1920年代の終わり頃にかかれたもののようですが、
この時代に、すでにこのような認識になっていたのですが、文部省が正しい日本語と
いうのを普及させるために学校教育のなかで、標準語というものをおしつけている
のが伺えるような文章に思えます。
 これとくらべると、現在の上方お笑い文化における大阪弁のほうが、大きな顔を
して流通しているように思えます。しかし、今の時代に「あいさつや講演」を大阪弁
やる人は、東京文化圏では、ごく少数はとなっているのでした。