大阪留学の記 7

 山川静夫さんにいわせると「大阪は浄るりの町」となるのですが、国立の文化
施設で大阪にあって、東京にないのが文楽劇場であります。首都東京からしますと
文楽なんて、ローカルの大阪だけにまかせておけばいいということになるのかも
しれませんが、そうなると首都東京は、後世にどのようなローカルの文化を残す
こととなるのでしょうかね。
 それはさておき、人形浄瑠璃は、義太夫を語る太夫、三味線、そして人形遣い
三つの専門家たちがしのぎを削って舞台をつくりあげます。文楽が他の古典芸能と
異なるのは、世襲制度がないところだそうです。
 雑誌「サライ」の特集の竹本住太夫さんは、次のように語っています。
「 古典芸能には珍しく、文楽世襲制度と違います。親の七光りは通用しません
から、修行が厳しい。しかも芸が難しいし、お金も儲からない。親父は自分が
味わった苦労を息子にはさせたくなかったんですね。『上の学校へ行け』といわれ、
専門学校の法科に進学しました。ところが昭和19年、繰り上げ卒業で軍に入隊。
壮行会で、私は父に習った寺子屋を語ったんです。すると父は、『そないに好きなら、
帰ってきて太夫になれ』といってくれました。
 絶対に生きて帰って、文楽太夫になるんや。その一心で帰還できたような
ものです。復員後の昭和21年、22歳で豊竹山城少掾師匠に入門しました。」

 住太夫さんは、父親も住太夫を名乗っていたので世襲のように感じますが、
実の父は三味線弾きであったということです。生後すぐに太夫の養子となったと
いうことで、こどものころから浄るりには親しんでいたものの、入門となると22歳の
時ということのようです。
 この時の師匠が、当代随一の太夫である山城少掾でありました。この師に弟子入りと
いうのが、エリートへの道のようです。
山川静夫さんの「綱太夫の四季」によると、この綱太夫さんは、この山城少掾(その
当時は古靭太夫)の門にはいったのは、7歳の時とあります。
これとくらべると、いかにも当代の住太夫さんは、スタートが遅いと感じます。
 以前に、拙ブログで紹介をしたことがある、戦時下の東京新橋演舞場加藤周一
さんが聴いた文楽の浄るりは古靭太夫のものでありました。
先日のNHK教育テレビでは、山城少掾の舞台を放映していましたが、まさに伝説の
芸人と呼ぶにふさわしい人でしょう。