こどもは、親を選べない

 歌舞伎の家庭に生まれた子供たちは、いやおうなしに芸事を教え込まれるので
ありますから、こうしたことが好きになれない(好きでないなんていえるような
雰囲気ではないのでありましょうが)としたら、生まれてきたことを恨むしか
ないのでありましょう。特に男で生まれてきたときは、そうかと思います。
 先日まで読んでおりました「綱太夫の四季」によると「文楽」の世界は、
浄るりも三味線も人形遣い世襲ではないものの、やはり、この親のあとをおって
文楽の世界にはいることが多いようであります。綱太夫が、息子の咲太夫について
発言したことを山川静夫さんが、次のように書いています。
「 自分が息子を立派な太夫にしてみせるとか、親の七光で栄光の座へ押し上げ
ようとかいうような雰囲気とはおよそかけはなれた、『めしだけは食える程度』とは、
ごくあいそのない返事だったが、文楽の世界は家柄が通用しないのだ。たとえ
我が子でも実力のないものは俺は知らんぞ、と努力をうながしたきびしさがにじみ
出ている。」
 こうした芸事の世界は、幼い頃からそうした雰囲気のなかで育つことが大成するに
力になるおんでありましょうか。
 それでは、同様なことが学者とか文学者の家庭家庭でもいえるのでしょうか。
基本的には、学者も文学者も七光りでは通用しないのでありますが、世にでるに
あたっては七光りは有効なようです。実力的には劣っても、七光りのほうが先に世に
でることができるようですが、後世に残ることができるかというと、これはまったく
別の話であります。
 詩人、作家の子供達には、できればこの家には生まれたくなかったというような
ことを書き残す人がいますが、「いらくさの家」とか「月の家族」といわれる家庭は、
そこの子供達にとって気持ちの安らぐところでなく、本人は良い作品を残すために、
家族などは犠牲にせざるを得ないと思っていても、子供にとっては、非凡な親である
ことが苦痛以外のなにものでもないのでありました。